そんなオフィス内で一音だけが沙菜の耳に届いた。

「はーーっ」という蒼士の大きなため息だった。

 蒼士さんため息ついてる……。

 沙菜の瞳にジワリと涙がたまっていき、ツンっと鼻の奥が痛み出す。あと数秒で涙があふれ出そうかというところで蒼士が沙菜と樹の繋がれていた手を払いのけた。

「畑中、悪いが沙菜は渡さない。そう言ったはずだが?」

「相原部長は出向するんですよね?沙菜はどうするんですか?いつ帰ってくるとも分からないのに待たせて……。遠距離恋愛でもするつもりですか?」

 樹の言葉に蒼士が頭をガシガシ掻くともう一度、大きなため息をついた。

 自分が蒼士を困らせているのだと思い沙菜は困惑した。どうしたらいいのか、どう話かけたらいいのかわからない。我慢していた涙がポロリとあふれ出してしまった。

 蒼士は慌てた様子で沙菜の瞳から零れ落ちる涙を拭うと「沙菜……心配させてしまいすまなかった。今日仕事の後で話すつもりだったんだが……」とその場に跪いた。


 その手には小さな箱が……。

「沙菜、俺はお前を置いていく気はない。結婚してほしい。俺についてきてくれないか?」


 うそ……。

 蒼士さん……。

 突然の蒼士からのプロポーズに固まっていた沙菜が泣きながら笑った。

 もちろん答えは決まっている。

「はい。私を連れて行ってください」

 沙菜の答えに蒼士はもちろんのこと、周りで見守っていた社員達も一斉に声を上げた。

 キャーーーー!!!!

 わーーーーー!!!!

 経理部のフロアーが大きな歓声に包まれた。皆が口々にお祝いの言葉を述べていく。

「部長かっこいいぞ!!」

「土屋さんおめでとうございます」

 大騒ぎとなっているフロアーで樹はガクリと肩を落としながら、茫然としていた。

 樹は沙菜が自分を裏切らないと思っていた。思い込んでいた。

 なんだかんだで自分の元へ帰ってくると……。

 俺はどこで間違ってしまったんだ……。

 沙菜……。

 樹は幸せそうに微笑む沙菜をもう一度見つめその場を後にした。



 樹とは入れ違いにオフィスに大物がやって来た。

 お祝いムードで騒いでいた社員達は突然やって来た大物に顔を青くして固まった。

「しゃっ社長!大騒ぎをしてしまい申し訳ございません」

 沙菜が謝ると、社長は嬉しそうに微笑んだ。

「いいんだよ。蒼士プロポーズはうまくいったみたいだね?」

「はい。まさかここでプロポーズすることになるとは思いませんでしたが……うまくいって良かった」

 まるで家族のように話す社長の姿に皆が目を丸くしていると、社長が説明を始めた。

「蒼士のことだから土屋さんは何も聞かされていないんだろう?」

「えっと……はい」

 社長はやれやれといった様子で沙菜を見つめた。

「この度の蒼士の出向は降格のものではなく、グループ会社の立て直しのためのものなんだ。立て直しの後はこの会社とのパイプ役となってもらおうと思っている。この会社のためにもね。これがうまくいけば蒼士はこの会社の社長だからな」

「「「「「…………」」」」」


「「「「「えーーーーーー!!!!」」」」」


「蒼士さんが社長?」

沙菜や社員達は蒼士に視線を向けた。

「お前それも話していなかったのか?」

社長がやれやれと再び頭を左右に振る。

「蒼士は私の甥っ子なんだよ。私と歳の離れた妹の子供が蒼士なんだ。私と妻との間には子供ができなかったため蒼士にこの会社を継いでもらいたいと思っていたんだ」

「そうだったんですか」

「土屋さん蒼士をよろしくお願いいたします。隣で支えてやって下さい」

 社長に頭を下げられてしまい慌てて沙菜も頭を下げた。こちらこそよろしくお願いしますと。