土屋沙菜(つちやさな)二十九歳は久しぶりに仕事が早く終わったため彼の家へと急いでいた。彼の名前は畑中樹(はたけなかたつき)二十九歳で同期入社。最近はお互いに仕事が忙しく、すれ違いの日々が続いていた。

 彼、樹とは入社してすぐ同じ部署に配属され、お互いを助け合うようになり、いつの間にか付き合っていた。初めこそ優しく気遣ってくれる彼だったが、付き合いが長くなり、部署が分かれると二人の距離は次第に離れていった。

 このままではいけないと、本日沙菜は樹に手料理でもと思いスーパーにより、食材を買い込むと樹のアパートへと向かった。

 樹、ビックリするかな。

 紗菜は樹に連絡せずに樹のアパートへ。

 それがいけなかった。

 今思えばあの時どうして連絡せずに、樹のアパートへ向かってしまったのか。

 サプライズ……そんな事をして、喜ぶ人ではないのに。

 
 以前もらっていた合いカギを使い扉を開け中に入ると、玄関に樹の靴の他に足を長く見せるであろうハイヒールが二足仲良く並んでいた。

 これは?

 ドクンッと沙菜の心臓が嫌な音を立てて動き出す。 

 沙菜の背中で開けたままだった扉が手を離したせいで閉まる音がする。その音がやけに響き、一呼吸おいて女の声が聞こえてきた。

「ねえ、何か音がしなかった?」

「あー?隣の部屋からだろ?それより、ほらこっちにこいよ」

 女の声と樹の声が奥の部屋から聞こえてくる。

 リビングの奥には寝室しかない。
 
 その後も寝室から聞こえてする樹の甘い囁き。こんな声……最近聞いたことがあっただろうか?いや、最初から……付き合いだした頃も聞いたことなどない。

 沙菜の震える手からスーパーの袋が滑り落ち、ドサッ、ガサガサと袋の摩擦音が響いた。その音に驚いた樹が半裸の状態で寝室から飛び出してきた。

 ああ……やっぱり……。

 浮気をしていたことは明白だ。

「おっ……お前、何しに来たの?」

「あっ……えっと……」

 何か言わなければと、沙菜は口を動かし、言葉を発しようとするが言葉にならない。

 そんな沙菜の様子にしびれを切らした樹が「はーーっ」と大きなため息をつき、面倒くさそうに頭をかきながらこちらを見た。

「とりあえず今は帰って、取り込み中だから間が悪すぎなんだよお前」

 樹は何も悪びれた風もなく、冷たい言葉を吐き捨てる。



 なんで?



 浮気していたのは樹の方なのに……。

 私が悪いみたいな言い方。

 沙菜は茫然と立ち尽したまま樹を見つめていると、樹のTシャツを一枚着た綺麗な女性が寝室からやって来た。

 綺麗な人……確か、受付嬢をしている子だ。

 樹はこういうタイプが好きだったんだな。

 そんな事を思っていると、目の前までやって来た女性が樹に体をすり寄せながら、気だるげに声を出した。

「ねー?どうしたの?何このおばさん。だれ?」

 おばさん……。

 確かに私の今の格好はくたびれたおばさんのようだった。コンタクトを買いに行く暇がないため昔買ったダサい眼鏡をかけていて、ぽっちゃり体系だったため体のラインが隠れるだぼだぼの、丈の長いカーデガンを着ている。

 彼女だけではない、他の人から見てもダサいおばさんに見えるのだろう。

 沙菜が何も言わずに立ち尽くしていると、樹が浮気相手に微笑みかける。

「ん?なんでもないよ。ほら、ベッドに戻って」

 優しく微笑む彼。

 あんな顔見たことなかった。

 そっか……。

 私以外には、あんな風に笑うんだ。

 最後にあんな顔……。

 見たくなかったな。

 私以外に見せる顔。


 今、樹が好きなのは私じゃないんだ。

 グッと悲しみがこみ上げて来るのを、必死に我慢する。

 大丈夫、遅かれ早かれこんな日が来る予感はあったのだから……。