「あの、電話の用事は……」
「そうそう。新居の鍵の引き渡しのことで不動産屋から連絡があったから話したくて。来週の金曜日の午後に鍵を取りに来てほしいんだって。時間帯がどうしても勤務時間になっちゃうんだけど、オフィスから近いから1時間ほど会社を抜けて引き取りをしてもらってきてもいいかな」
「来週の金曜日……。一貴さん、午後から会議ですよね」
「そうなんだ。頼める?」
一貴さんの声を聞きながら、ほんの数秒目を閉じる。そうして頭のなかで、一貴さんと一緒に見に行った新居の間取りを思い浮かべた。
私は一貴さんとあの部屋で暮らす。
広いカウンターキッチンで一貴さんに食事を作って、眺めのいいリビングで一貴さんと寛いで、優しい一貴さんと穏やかな生活を送っていくんだ。それが、私が選んだ現実。
「わかりました。金曜日の午後、鍵の受け取りに行ってきます」
すんっと鼻から息を吸い込んで、瞼を開く。
「うん、よろしくね。受け取り場所の事務所の地図はあとで送っておくから。それと――」
電話口から聞こえてくるいくつかの取り留めのない話に笑ったり、相槌を打ったりしたあとに、私と一貴さんはトータル10分ほどの通話を終えた。
いよいよ、一貴さんとの新生活が始まるんだ。
楽しみにしていたはずなのに。迷いは全て消えたはずなのに。
今また、複雑な感情で私の心が靄がかっている。



