あのとき、横断歩道の向こう側から『危ない』と叫んで飛び出してきた透也は、多分私のことをバイクから助けてくれようとしたんだと思う。
だけど、一貴さんには透也が私を連れて行こうとしているように見えたのだろう。
私を抱きしめる一貴さんの腕はひどく震えていた。
「暖乃、俺がいつか君に言ったことを覚えてる?」
耳元で私を呼ぶ一貴さんの声が、涙交じりになる。
「藤沼くんのことを忘れられなくても構わない、って。君に結婚前提の告白をしたときにそう言った」
もちろん、覚えている。一貴さんが、透也を含めて私を受け入れてくれると言ってくれたのがとても嬉しかったから。
無言で小さく頷くと、一貴さんが「ごめんね」と声を震わせた。
「藤沼くんのことを忘れなくてもいいなんて、本当は暖乃を手に入れるための建前だった。さっき、藤沼くんのほうに真っ直ぐに走っていこうとする暖乃を見て思ったんだ。俺は暖乃のことを誰にも渡したくない。まだ暖乃は藤沼くんのことを忘れられないのかもしれないけど、これから年を重ねていく間に、暖乃の記憶を全部俺に塗り替えて、彼のことなんて思い出せないくらいにしたい」
「一貴、さん?」
私をきつく抱きしめながら話す一貴さんの表情は見えない。
ゆっくりと静かに話す彼の声は、ほんの少しだけ涙交じりに震えているけれど、言葉にはしっかりと重みがあった。
初めて聞かされる彼の本音に、ドクドクと心音が高鳴る。



