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 その年(1548年)の暮れも押し迫る頃だった。


 「織田信秀から和睦の書状が?」


 数か月前、ここ稲葉山城目前まで攻め込んできたものの、父によって撃退され命からがら尾張まで逃げ帰った織田信秀から、和議を請う書状が届いたとの知らせがあり、城内執務室へと急いだ。


 父・斎藤利政を中心にごく少数の重臣のみが呼ばれていた。


 明智光秀も駆けつけていた。


 先の戦ではこちらが大勝していたこともあり、和議に応じる必要はないのではという意見もあったけど、今は美濃の国内を統一することが優先として、和議への道を検討することとなった。


 この美濃は先の支配者・土岐家を慕う豪族もまだ多く、周辺諸国との国境地帯に所領を持つ者どもは、常に寝返りの危険性があり油断ならない。


 美濃の国内は決して一枚岩ではないのだ。


 「織田は和睦の条件に、どのようなことを申しているのですか」


 今回の勝者は我ら、織田は敗者なので領土割譲などを申し出てくると期待したのだが、


 「嫡男の信長(のぶなが)の嫁として、我が娘・帰蝶(きちょう)を迎えたいというのだ」


 父の答えに私は驚いた。