「もう帰るの?」と健人に言われたのは、夜ごはんのあと、着替えを済ませて部屋を出たときだった。

 「帰るよ。お給料だけもらったらね」

 健人は少し考える顔になって、数秒ためると、「残業していかない?」と言ってきた。

 「馬鹿じゃないの、なかなか雇い主は残業させたがらないものなんだけど。余分にお金払わなきゃいけないし」

 「そんなものはいくらでもある」

 お腹の中に、ぶわっと大きな火が上がった。この嫌味な感じなくさらっと言うのがまたむかつく。まあそりゃあお金はあるでしょうよ。お父様は芸能人も通うような洋菓子店を経営、お母様はかの有名な青野倫子ですからね。

 「だめ?」と甘えるような光を宿して見つめてくる健人に、「あのさあ」と返す。

 「覚えてないわけじゃないでしょう? 初めさ、一日五時間って話だったじゃん。それがね、むしろ残業なら毎日してるのよ」

 「定時は八時のはず」

 「馬鹿野郎。この頃四時間近く早く出てるんだよ、四時頃でもう五時間経ってるわけ」

 黙り込んでしまった健人に、わたしはため息をつく。

 「なに、まだなにかあるなら、やってから帰るけど」

 「本当?」と、彼の目がわたしをほんの少しだけ見下ろす。身長が健人の方が高いので仕方ないのだけれど、数メートルの距離があってやられると、なんだかむかつく。この距離なら、そんなに目線を下げなくても目は合わせられるんだから。

 「いいわよ。わたしの得意分野なら」

 「難しいことは言わないよ、一緒にいてくれればいいんだ」

 「はあ? 馬鹿じゃないの、それはわたしの得意分野じゃない!」

 「日常には癒しが必要でしょう?」

 「ならわたしにも癒しの時間をくれよ……」

 家のペンギングッズにまみれて、宿題のことなど一切考えない、そんな夜が一度くらいあってもいいじゃないか。それがどうした、似合わない服を着せられ、やっと私服へ着替えても家には帰れないと。わたしの癒しはどこへ逃げた?

 「おれは相川さんといると癒される」

 「知らない、わたしはあんたといても癒されない」

 「それは悲しい。ふられたってことでいいのかな」

 「なんで悩めるんだよ。赤飯炊け、赤飯」なんておめでたいやつなんだ。

 「そう怒ったら、しわが増えるよ?」

 「笑っていてもしわは増えます」

 「でも印象がまるで違う」

 だったら怒らせないでくれよ……。

 「それなら、怒らないでいた方がいい。笑ってできたしわの方が印象がいい」

 あくまでわたしが怒っているだけということか……! お前が怒らせてるんだっつーの。

 「あんたさあ、なんで学校じゃあみんなに優しいのに、わたしはそう意地悪なわけ? 脅迫めいたこともするし。てか脅迫するし」

 「うーん」と、健人は考えるような顔をする。そうして、「好きだからかな」と笑う。

 「相川さんがかわいいから」

 「は?」

 かつて、これほど言葉が通じない話し相手がいただろうか。記憶を辿ってみても、そんな人は一人もいない。

 「かわいい女の子って、どうしてもいじめたくなるじゃない」

 「ガキンチョか!」

 「高校生なんてまだまだ子供だよ」

 「そういうこっちゃねえよ」

 「ほーら、また怒ったあ。怒ったって事態は好転しないよ?」

 「怒ってねえし、事態を好転させてくれねえのはあんたなんだよ」

 「ほらあ、そんな言葉使って」

 「悪かったね、男勝りで」

 「いいや、そんなところがかわいいんだよ」

 やっぱり最高の癒しだ、と言う健人へ、馬鹿じゃないのと返す。

 そんなこと言うから、唯子が悲しむんだよ。あんた知らないの? 唯子が、あんたはもう自分に興味がないって寂しくしてること。