三日ぶりに、健人は一人で調理場に立った。唯子は、ダイニングチェアで唯人君に肩を抱かれながら、健人の姿を見つめている。

 ふと、微かな声が聞こえた。とても綺麗な声。少しして、その声が歌っているのだとわかった。言葉のない歌。それは管楽器のように、優しく旋律を奏でていた。そのリズムに合わせて、唯子の肩を抱く唯人君の指先が動いている。そして、時々唇を舐める仕草や、ぽっこり浮き出た喉仏が動くのを見て、唯人君が歌っているのだとわかった。その旋律は、わたしの知らないものだったけれど、とても優しく、美しいものだった。唯子の表情も少しずつやわらいできている。これは、二人だけに通じる、秘密の、魔法の音楽なのかもしれない。

 ずいぶんと長い時間をかけて、ようやく健人が持ってきたのは、深さのあるお茶碗だった。

 「梅干しとオクラのお茶漬けだよ」と言うと、お茶碗を置いて、その手前に箸を置いていった。

 わたしは密かに、まずい、と思った。まさか人前でお茶漬けを食べる日が来ようとは。というのも、お茶漬けのちゃんとした食べ方なんて知らない。家ではよく食べるけれど、お茶碗に口をつけてかきこんだことしかない。それ以外は、小さい頃、スプーンで食べた記憶しかない。和食のお店でこういう料理は一度も食べたことがないのだけれど、それもこれが理由。

 こんなさらさらしたもの、かきこまずにどう食べるんだ――⁉

 まずいまずい、と心の中で繰り返す。いや、でも大丈夫。少しみんなの食べ方をうかがって、それっぽく食べればいい。もしもみんなが丁寧に普通のごはんのように食べ始めたら、一度挑戦してみて、だめなら諦めよう。思い切りかきこんでやる。恥ずかしければ、みんなが気づくよりも先に食べ終えてしまえばいい。

 「いただきます」と手を合わせると、みんな一斉に、お茶碗を手に持った。そして淵を口に当てる。箸は、家でのわたしが持つものと同じように動いている。

 もしかしたら、これが普通の食べ方なのかもしれない。なんなら、これが正しい食べ方なのかもしれない。

 わたしはこみ上げる笑いを、なんとか心の中に留める。いける、これならいけるわ――。少なくとも、この場面では特別に下品だとは思われない。

 わたしがお茶碗と箸を持つと、ずずっと音が聞こえた。見れば、唯子が泣いていた。

 「健兄のごはんだ……。美味しい」

 「だってよ?」と、わたしは、左肘で健人の右腕を突いた。彼は微かに口角を上げただけだった。