壁際で抵抗虚しくぎゅうぎゅうと抱き込められていたマリオンは、薄らと響くような空気の振動を感じた。

細かなその振動は徐々に地面を這うような低音に変わる。


しばらくもごもごと暴れると、カイルがやっと少しだけ離れる。ほんの拳ひとつ分ほどだが。

「……どうした?」
「雷ですよ……離して下さい」
「うん? ……鳴ってるか?」
「本格的に鳴ってからじゃ遅いんです」
「なにかあるのか?」
「この時期の雷の後は、決まって雪が降って強い風が吹くんですよ……早く直さないと屋根が飛ばされる」
「屋根? 直す? マリオンがか?」
「そうですよ……もう! いい加減に離して下さい!」

力いっぱい腕を突っ張ると、カイルはゆっくりと下がっていった。
ふたりの間に隙間ができると、マリオンは腕の下をくぐって抜け出すことに成功した。


そのまま部屋を出ると、何も言わずに後ろからカイルが大人しく付いて来る。


階下に行って、さっき放り投げた道具を取りに厨房に向かう。
その途中で家令のアーノルドと出くわした。

後ろにいるカイルをちらりと見ると、アーノルドは目の前にいるマリオンを見下ろす。

「……どうされましたか、お嬢様」
「さっき持ってきた道具は?」
「そのまま置いてございます」
「……取りに行ってもいいけど、普通に後ろをついて来るぞ?」

もう一度マリオンの後ろにいるカイルを見て、アーノルドは恭しく頭を下げる。

「すぐにお持ちします」
「……その喋り方やめろ」
「こちらでお待ち下さい、お嬢様」


補修材と道具を運んでくると、先に手を出したのはカイルで、アーノルドは遠慮なくその腕の上に積み上げていった。
最後に革の手袋だけはマリオンに渡す。

「お早くお願いしますよ」
「わかってる、その喋り方やめろ」
「お話はお済みですか?」
「…………まだ……先に屋根だろ?」
「お気をつけて」

ふいと機嫌を損ねた様子で廊下を取って返すマリオンに、アーノルドは作り物めいた慈悲深い眼差しを向けている。
何も口を挟めない雰囲気にカイルは黙ってマリオンの後を追う。


屋敷の三階、更にその屋根裏へマリオンは階段を上っていった。
屋根裏は広く、木箱や布のかかった家具など様々が並んで、物置きのような状態になっている。

ひときわ高く風が鳴っている窓へとマリオンは足を向けた。

頭より高い場所にある窓の前には、そこへの踏み台として用意した木箱が大きな順に並んでいる。

「ちょっと待てマリオン、外に出る気か?」
「そうですよ?」
「雪も見える。危ないから俺が行く」
「…………誤って落ちてもケガをしない人、だーれだ?」
「……いや、そうかもしれないけどどう考えても」
「あ! そうですね。誤って落ちたことにすれば……不幸な事故ってことで周囲は納得」
「……それは誰の話だ」
「この窓の屋根が飛ばないように打ち付けるだけなんで、そんな遠くまで出たりしませんよ。カイルは黙ってそのまま道具を抱えてて下さいよ」
「…………でもなぁ」
「しつこい男ですね」

肩掛けを取るとそこら辺に置くのではなくカイルの頭に被せた。
ローブとは違って埃が付くのだと理解して、カイルはされるがままになっている。
両端を顎の下で結ぶと、マリオンはうふふと楽しそうに笑って手袋を着けた。

「何か着てくれ」
「カイルよりもはるかに暖かいですよ」
「…………見た目が寒いんだよ」

シャツ一枚とスカートの身軽な出で立ちで、難なく木箱に上がると、マリオンは窓に手をかけてそこを押し開けた。
足元だけは毛皮がのぞくブーツを履いていたので、どうにかそれ以上言い募らずに、カイルは頑張って口を閉じる。


窓の大きさはマリオンの身長の半分ほどで、そこをくぐり出て外側に立っている。
カイルから見えているのはマリオンの胸の辺りから膝の辺りまで。
内側に入って来た手が、ひらひらと振られて道具を要求している。
言われた通りにひとつずつ手渡していく。

カイルは外から見た屋敷の外観を思い出していた。

角度のある屋根の途中には、小さな窓が等間隔に並んでいたのを思い出す。
飾りのための小さな露台に見えていた場所は、マリオンひとりがなんとか立てるほどの、本当に飾りの露台らしい。

窓からは寒風が吹き込み、それに巻き上げられた雪も舞い込んできた。
元からそう暖かくもない屋根裏が外の空気と変わらなくなってくる。

風にひらひら細かくはためくスカートを見ながら、カイルは顔を顰める。

「他にこういうことをする誰かはいないのか?」
「……いますけど?」
「ならどうしてマリオンが」
「まず私なら落ちませんし、落ちたとしても大丈夫だからですよ」
「…………言いたいことは分かるけど」
「カイル……」
「うん?」
「金槌取ってください」
「……はい」

ありがとうと受け取ったマリオンは、わざわさ身を屈めてちらりと顔を覗かせる。
その表情にカイルはどくりと大きく胸を鳴らす。

一瞬だけ交わるふたりの視線。

マリオンは惜し気もなくすぐに身体を伸ばして作業に戻っていった。

何もかも悟ったような優しげな表情を反芻して、カイルの心拍数は跳ね上がる。



ほどなくして修理が終わると、マリオンは屋根から戻って、休む間もなく足場にしていた木箱を元の場所に引きずって戻した。


高く鳴っていた風の音は聞こえなくなったが、腹に響くような雷の低音が長く続いている。


手袋を外したのを見計らって、カイルは肩掛けでマリオンを包んで、そのままついでに正面から抱き付いた。

「…………ぬくい……」
「言ったでしょ、カイルよりはるかに暖かいって……離して下さいよ」
「待ってくれ、もう少しこのまま」

外套は無しで、シャツと毛糸の上着だけだったカイルは、身体を細かく震わせて、マリオンで暖を取る。

「もう、ほら……あっためてあげますから、離れて下さい」
「…………いや、いい。部屋に戻ろう」
「お茶を淹れましょうか?」
「それはお願いします」

カイルはマリオンの部屋に放り込まれる。
今度はついて来ることはなく、暖炉の前で震えながら両腕を擦っていた。

道具を厨房まで運んで、マリオンは代わりにポットと茶器を受け取って部屋に戻ってきた。

温かいものを体の中に入れて、カイルはやっと落ち着いたように息を吐き出した。

「ああ……降り始めましたね」
「本当に風が強くなったな」

横向きに、ものすごい速さで流れていく雪は、窓にぶつかると一瞬だけふわりとなってまたすぐに風で飛ばされていく。

雷は近く、どろどろと地を這うような音だったのが、大きく単発の音になってきた。

暖炉の前に椅子を向かい合わせに並べると、カイルはマリオンを座らせて、その向かいに腰掛けた。

小さな椅子からマリオンを見上げるようにする。

「マリオン」
「……なんですか?」

両手で持ったカップで指先を温めながら、カイルはどう話を切り出すべきかと考えた。
考えたが、何が正解か分からないのですぐに諦める。

「どうしてマリオンが屋根の修理をするんだ」
「だから……」
「そうじゃない……この屋敷はどうなってるんだ、ひと気が少なくないか?」
「…………裕福ではないので、確かに使用人は少ないですね」
「俺が会った以外に誰がいるんだ?」
「えっと……あとは小間使いのコリンだけですか?」
「三人?!」
「はい」
「この広い屋敷にか?」
「裕福ではないので?」
「そ…………れでやっていけるのか?」
「ご覧の通り」
「領主殿はどうお考えなんだ」
「あー…………っと」
「なんだ」

マリオンは斜め上を見上げて、しばらく考える素振りをすると、椅子から立ち上がってカイルの前に立つ。

腕を除けるとカイルの膝の上に横向きに座った。

「マ、リ……オン?」
「体を使うってこういうことですかね」
「は?」
「これからカイルを丸め込みますから、そのつもりで」
「……宣言するものなのか?」
「分かりやすくて良いでしょう?」

カイルは持っていたカップを床の上に静かに置くと、両腕をマリオンの腰に回す。

「……聞こうか」
「領主は亡くなりました」
「…………ちょっと待て」
「十五年ほど前になります」
「いやいや…………は?」
「ジュリエットがマーレイ領の最後の領主様ですよ」
「マ……リオン……が継いで?」
「ないです」
「その……ジュリエットはおいくつで亡くなられたんだ?」
「六十過ぎですね」
「そうか……ご両親は?」
「ジュリエットの子どもって意味だったら、更にその十年前に亡くなったそうです」
「待て、計算が合わない」
「合いませんね」
「二十五年前に亡くなった?……マリオン何歳なんだ」
「今年で十九になりました」
「ちょっと待て! 色々おかしいぞ!!」
「カイル…………さぁ、これからお話しますから、絆されて下さいよ?」

マリオンはカイルの胸に体重を預けると、腰に腕を回して、肩に頭を置いた。

「私はマーレイ家との血の繋がりはありません。一滴も。完全なる他人です」
「そ……んな」
「領主様は十五年ほど前に亡くなりました。私はジュリエットを見たことも、会ったこともありません……もちろんジュリエットの子……次の領主になるはずの息子は、夫婦揃って私が産まれる前に亡くなっています。ふたりに子どもはいませんでした」
「…………それは」
「だからジュリエットは六十を過ぎて亡くなるまで、ずっと領主を続けていたんです」
「…………なぜ……待て、そんな話は」
「はい、王城に知らせは出していません」

カイルが知っているのは、現マーレイ領主は侍女との間に娘を持った、というどこにでもありそうな醜聞だ。

『マーレイの落とし胤』

マリオンはそう周囲から陰口を叩かれながら、学院で過ごしてきた。

「なぜ届け出なかった」
「交替の誰かを次の領主に据えるって意味ですか?」
「そうだ、そうすれば……」
「別の誰か……他の貴族がここに来られては困りますから」
「だが」
「誰が頻発する魔獣を抑えられますか? そんな力を持った誰かを知っていますか? 暴走が起これば王軍一師程の力が必要です。それを維持できるのは王ぐらいでは?」
「……そうだが……ならどうやって、誰がこの領を維持してるんだ」
「王軍一師ぶん以上の兵力があるからですね。ジュリエットはその兵力を維持する為に誰にもこの地を譲りたくなかったんです」

確かにマリオンの言う通り、訓練された千から二千の兵士と兵力を維持管理するのは並大抵ではいかない。
中途半端な貴族では、早晩この領は立ち行かなくなるだろう。

隣国と、森から湧いてくる魔獣を相手にできる軍一師、それから領民の生活も守らなくてはならない。
そう考えてカイルは眉間にしわを寄せた。

「その兵力は……どこから?」
「覚えてます? この地は何故か魔力量の多い人が産まれやすいって話」
「領民か?」
「今となっては領民扱いですけど……元はそうでもなかったみたいですよ。その辺難しいんで、だから余計に別の誰かに引き継ぐなんて、ジュリエットは考えなかったんだと思います」
「元は違う?」
「流れ者の集まりだったらしいです……罪人だったり、爪弾き者だったり、落ち延びた王族、なんて人も居たらしいですよ? この奥の森に住んでますね」
「確かに……誰かに引き継ぐには難しそうだな」
「納得してもらえました?」
「まだ疑問は無くならないが」
「はい?」
「もう丸め込まれそうだ……」
「ちょろいですね、カイルは」



誰にも内緒ですよとマリオンはきれいに笑う。



ぎゅうと抱きついてきたので、カイルは同じ力で抱きしめ返した。

















*注意*

この下にマリオンのイラストがあります。
想像したのと違う!となりそうな方は、全力薄目でお願いします。