すると、その妹は突然演奏を辞めて、
長椅子からぴょんと飛び降りて、俺達の元に来て無邪気に尋ねたのだ。



「ねえね。野球の(りょう)ちん?」
「そう、(りょう)ちん」



「なんで昨日、名前呼ばれなかったの?
配信まで見て楽しみにしてたのに。学校の友達にも自慢したんだよ。
お姉ちゃんのカレシがプロ野球選手になるって。」



彼女は慌てて椅子から立ち上がり、妹の口を塞いだけど、もう遅かった。


「亮ちんって嘘つき。」



彼女はしゃがんで「嘘つきじゃないよ、スカウトの人の見る目がなかったんだよ」と妹の洋服の裾を持ち、なだめていた。
首を何度も振っていた。
俺のほうはしばらく見なかった。



俺はその瞬間、小学生のときからの人生を懐古した。

初恋の君は大好きだったピアノを辞めるその日、
放課後の教室で、不甲斐ない気持ちも抱えて泣きながらもその曲を奏でて、
《《選ばれた》》俺の背中を押してくれた。


そうして選ばれて強豪校の中学に進学した俺は、
ずっと選ばれることだけを生き甲斐に、高校、大学、と練習を重ねてきた。
なのに、肝心のその日に、俺はどのプロ野球球団からも《《選ばれなかった》》。




しゃがんで彼女の妹と目線を合わせて、なんとか言葉を絞り出した。

「……ごめんね、」



この十年余りの月日は何だったのだろうか。
小学生の君に背中を押されて踏み入れた野球の世界。その歳月の長さを思った。

いつの間にか俺は、食卓の椅子に座らされていた。


野球部の練習をサボってしまった俺の気を紛らわそうと、彼女が手料理を振る舞うと家に呼んでくれたのだ。でも今はその優しさが全て苦しかった。

豪華な食事を前にして、湯飲みの茶に映る自分とにらめっこしていることに気づいた。


「ごめん、ちょっと、」

俺は喉元から出かかった言葉を呑み込んで、
荷物をまとめると、夜の街に駆け出した。

無茶苦茶だって分かってる。
でも現実の人に慰められるぐらいなら、記憶と心中したかったのだ。




夜長(よなが)(こう)、十月のとある夜から数日間、
俺は消えた。