さんざん世の女性たちを翻弄し、数々の浮名を流してきた元伝説の色男ベルナールがソフィの私室を去ると、入れ替わるように最高の聖女アニエスがドアをノックした。

「ソフィさん、ただいまです」
「おかえり。旅はいかがでしたか、アニエス」

 とても楽しかったです、とアニエスは顔いっぱいを笑顔にして答えた。

「閣下は馬を操るのが上手ですね」
「閣下からもらったお弁当が美味しかったです」
「閣下と一緒に宿で食べたお肉とスープとお芋が……」
「閣下が廊下の寝椅子で……」
「閣下は、私の話を……」
「閣下が……」

 茶色の大きな目をキラキラさせて話し続けるアニエスに、ソフィは微笑む。

「アニエス、さっきから、閣下ばかりですねぇ。そんなにベルナールといるのは、楽しかった?」
「はい。閣下とご一緒できてよかったです」

「アニエスは、ベルナールが好き?」
「はい。とても好きです」

 屈託のない返事に、ソフィは苦笑してしまった。
 おそらくアニエスは、自分自身でもまだ気づいていないのだ。

「アニエス、最初にここに来た時に、あなたは泣いてしまったでしょう?」
「あー……。あの時は、気が緩んでしまって……」

 確かにそれもあるだろう。

 ベルナールも言っていたように、アニエスにとって王宮を出されてからフォール城に着くまでの日々は、決して楽なものではなかったはずだ。
 十八になったばかりの少女が、たった一人で、少ない退職金だけを手に、どこへ行くともなしに旅をする。
 自分の技術だけをよりどころに、常に明日の心配をしながら生きていくということが、楽であるはずがない。

 アニエスはどんな気持ちであののぼりを作り、背負ってきたのだろうと思うと、ソフィは鼻の奥がじんと痺れて泣きそうになる。

 国を追われ、着の身着のままフォールに逃げてきた日のことをソフィは思い出していた。
 ソフィには夫がくれた宝石があった。
 フォールに着けば両親やベルナールが待っていると信じられた。
 それでも、旅は辛く苦しいものだった。

 アニエスにはそれすらなかったのだ。
 自分にできることを一生懸命にやって、やっと安心できる場所にたどりついて、そこでふいに言われた言葉に傷ついて泣いてしまったというのは、わかる。

 けれど、やはりソフィには、理由はそれだけではないように思えてならない。

 どんな状況にあっても明るく元気に笑えるアニエスの心は、とても強くてしなやかだ。
 簡単には折れない。