「あれ?」

 目を覚ましたアニエスは、衝立の向こう側を覗いて首を傾げた。
 反対側の寝台にベルナールの姿はなく、ピンと張られたシーツの様子からして眠った形跡もなさそうだった。

 木綿の下着(アンダードレス)とドロワーズの上に、一人でも着やすい前ボタンのドレスを着けて廊下に出ると、休憩用の長椅子の上に手足の長い長身の男の人が寝ていた。

「ベルナール閣下!」

 なぜ、こんなところに?

「ああ。アニエスか……、おはよう」
「おはようございます。何をしているんですか?」

 はあっとため息を吐きながらベルナールが身体を起こした。

「人の理性には限界があるからな。物理的な障害を設ける必要があった」
「何を言ってるのかわかりませんが、寝不足のようですから少し目を閉じてください」

 癒します、と言って、ベルナールの額に手をかざした。
 わずかな施術の後にベルナールがアニエスの腕を掴んだ。

「アニエス」

 ぐいっと腕を引かれて、ベルナールの胸に抱き寄せられる。
 よろけたままベルナールの膝に乗ってしまい、心臓が飛び出しそうになった。

「閣下……?」

 ベルナールは黙ってアニエスの髪と背中を撫でていた。
 心臓のドキドキが大きくなる。

「あの、閣下……、いったい、どうしたのですか?」
「アニエス。俺は、どのようにすればいいのか、わからなくなった」

「何がわからいのですか?」
「今まで、どうやって女を口説いていたのか、忘れてしまった」

 んん? アニエスの眉間に皺が寄る。

「申し訳ないのですが、相談する相手を間違っています」

 よいしょ、とベルナールの膝から降りて、だらんと垂れている手を引っ張った。

「とりあえず、朝ご飯を食べに行きましょう」
「ああ……、そうだな……」

 午前中いっぱい通りでの施術や往診を行い、昼くらいに戻ってきたベルナールと一緒に宿の一階で昼食を取って、フォール城への帰途についた。

 ぱかぱかとゆっくり進む馬の上で、町での様子をベルナールに話した。
 みんな親切でいい人ばかりで、アニエスが行くととても喜んでくれた。重い病気の人もいたけれど、だいぶ楽になったと言ってくれた。
 そうか、とか、よかったな、とか言いながらベルナールは話を全部聞いてくれた。

 そんなふうに聞いてくれる人がいることが、アニエスはとても嬉しかった。

 夕陽の中をのぼりを背にしたベルナールとアニエスが城に近づくと、兵士たちがやんややんやの喝采で出迎える。

「閣下、首尾はいかに」
「大勝利でございますか」

 だが、どんよりとしたベルナールの顔を見ると、みんな腫れ物にでも触るような口調になり、急に明日の天気について話し始めた。
 ベルナールが行ってしまうと、兵士の一人が「嬢ちゃんは、閣下のどこが不満なんだい?」とこっそり聞いてきて、アニエスは首を傾げた。

「不満なんかないわ」
「閣下のことは好きかい?」
「ええ。好きよ」

 最初こそグサッと心に傷を負わされたが、その後のベルナールに不満はないし、むしろとても好きだ。
 遠くの町に施術に行くための旅も、ベルナールの視察に同行させてもらっただけとはいえ、一緒に行けてとても楽しかった。

 町で食べたさまざまなものについて兵士たちに語って聞かせる。
 みんなはなぜか、これはダメだ、みたいな顔になって、へえ、とか、ふうん、とか、そりゃよかったね、とか、おざなりな相槌を打った。

 疲れているのかしら? 

 心配になって聞くが、全然大丈夫だと言われてしまう。
 アニエスこそ疲れただろうから、早く休むといいと言われて、アニエスの部屋がある本館に放り込まれてしまった。