「こいつめっちゃ跳ねるぞ!」
「そっちだ! そっちに飛んだぞ!」
「俺に任せろ!」
「シューート!」
 クロマユはまたもサッカーボールにされ、今日は下町の子供たちの脚にばいんばいんと蹴られている。いつもはピーピー悲鳴を上げながら双子王子にもてあそばれているクロマユだが、今日は心なしかうれしそうだ。
 リファはその光景を、穏やかな気持ちで眺めていた。
「クロマユが街の人たちと打ち解けられてよかった」
「……本当にそうか?」
 先ほどの余韻で、まだぐすぐすっと鼻を鳴らしているリファに、ジニアスは冷静にツッコんでいる。
 街の人たちが貸してくれた小さな切り株の椅子に座るリファの手には、温かいお茶。煉瓦の壁にもたれているジニアスの手には、おいしいお酒が握られている。茶菓子にはたくさん買ったオオガミ様クッキーだ。
 すべて、このあたりの市の人々からの好意である。その優しさがうれしくて、リファの心はふかふかと温かかった。
「クロマユに、あの話聞かせられてよかった」
 しみじみとそう漏らしたリファに、ジニアスがちらりと視線を送る。
「お前、ちょっとクロマユに感情移入しすぎてないか?」
 ジニアスからの意外な言葉に、リファは戸惑う。
「え……、そうかな?」
「ああ、さっきのビケのおっさんの話を聞いて一緒に号泣してるとことか。感情がシンクロしてるみたいで、ちょっと不気味だったぞ」
 ぶきみ。まさかそこまで言われるほどひどかっただろうか。
「感情移入っていうか、一緒にいてなんか親近感を感じることはある」
 そう、りほのとき飼っていた黒いふわころと一緒にいるような感覚に襲われることがあるのだ。ぽてぽてと動き回るクロマユを見ていると、たったひとつの心残り――かわいいふわころのことをよく思い出すのだ。
「親近感? ハンスたちでも思い出すのか?」
 ジニアスの言葉に、リファが答えようとしたときだった――。
「きゃあああ」
「狼だ!」
 街の人々の悲鳴と、物が倒れる音が響いて、リファとジニアスは思わず固まった。
 見ると、街の市場通りの向こう側から、なんだかどこかで見たことがあるような狼の個体がこちらへと走ってきている。その前方を、人々が慌てふためいて逃げ惑っていた。
「あれは……」
 唖然とするリファをよそに、ジニアスがそちらへ向かおうとするのを、先ほどまでクロマユでサッカーをしていた子供たちが止めた。
「兄ちゃん危ないぞ!」
「最近この辺りで銀狼の遠吠えが連続して聞こえてたんだ」
「オオガミ様の加護があるのにどうやって入ってきたんだ?」
 子供たちが口々にそんなことを言うので、リファはさっと顔を逸らした。
 身に覚えがありすぎて今すぐ姿を消したいくらいである。
『あっ!』
 人々をなぎ倒し、市の品物を吹き飛ばし、一直線に向かってくる狼――コマが、とうとうリファを見つけたようである。
『リファだー!』
 コマの喜びに満ちた声がする。
 リファ以外の人間が聞けば、腹の底からの恐ろしい鳴き声である。
 リファは思わずそちらへ行こうとして、ジニアスに肩を掴んで止められた。
「やめとけ。あれだけ市を破壊して現われた狼を飼いならしてると思われたら厄介だぞ」
 そんな殺生な。
「だって、どうすれば……」
 リファはおろおろとその場で二の足を踏む
「とりあえず知らんぷりしとけ」
「えー!?」
 そんな問題の先送りの仕方があるだろうか? いや、ない。
 ジニアスはそう言い残すと、子供たちを安全な場所に移動させようと、屋根のある建物へと向かった。子供たちの手にはクロマユも抱かれていて、クロマユは必至でリファのほうへ飛んでこようとしている。
 その間も、コマはリファ目指して様々なものを蹴散らして向かっていた。
 そのうしろで、『コマ―!』と叫んでいるライムギの姿が小さく見えた。そっちはそっちで、人々がパニックに陥っている。
『寂しかったよー! 会いたかったよリファー!』
 コマの涙交じりの声が届いて、リファは思わずそちらへ駆け寄ろうと足を踏み出した。ジニアスはああ言ったが、リファが行かなくてはこの騒動は収まりそうにない。
 彼らが人々を傷つける狼たちではないとわかっているが、この騒ぎで負傷する人も出てくるだろう。
 そしてなにより、寂しかったと泣いているコマをぎゅっと抱きしめて、思う存分なでてあげたい。
「コ――」
 マ、と続くはずだった声は続かなかった。
 リファの前に現われたのは、ドミニクだったからだ――。
 黒い毛並みは、野生とは思えないほど毛づやがいい。切れ長の目が美しい、意地悪なあのドミニクである。コマよりもひと回り大きい体が、ジニアスたちからリファを隠す。
「おねーさん!」
 クロマユをかかえていた少年が叫んだ。ドミニクはそちらに見向きもせずに、ただリファを見つめている。
『――お前のせいで、俺の群れはめちゃくちゃになった』
 ドミニクの声には怨念めいた感情がこもっていた。グルル……と不穏に喉が鳴り、いつもはすっと整っている鼻筋には、怒りの皺(しわ)が寄っていた。
『お前さえ現れなければ、孤高の銀狼の群れとして縄張りを静かに巡る日々を過ごせていたのに』
 リファの足はすくんで一歩も動かなかった。
 これまでのリファには、動物から異常な愛情を向けられた経験しかなかった。こんな憎悪のような感情をぶつけられたのは初めてだ。
「リファ! 逃げろ!」
 ドミニクの巨体の向こう側で、ジニアスが異常を察して大声で叫んでいる。
『お前の喉を噛み切って、殺してしまえば皆が正気に戻るだろうか』
 暗くよどんだドミニクの瞳が、怯(おび)えきったリファを映し出していた。
 大きな口が開いて、尖った牙がリファの頭にかざされる――。
「リファ!」
 どっとジニアスと一緒に倒れ込んだ。
 子供たちを家の中へと押し込んで、助けにきてくれたらしい。
 ジニアスとリファが倒れたすぐそばの地面に、ドミニクの鋭い爪が食い込んでいた。
「こいつ、ドミニクか?」
 ジニアスはリファを立ち上がらせると、さっと背中にかばった。小さいリファには、ジニアスの背中しか見えなくなる。けれどその体の向こうから、ドミニクのうなるような鳴き声が聞こえてきた。
『邪魔をするな、俺はそいつを殺して群れをもと通りにする』
 ドミニクの牙が、再びリファに向けられるが、そこにはジニアスがいる。
『どかないなら噛み殺すぞ』
「なんて言ってるか知らないが、こんな子供相手になにまじになってんだよ」
 ジニアスが皮肉げな笑みを浮かべた。
 それに青筋を立てたドミニクが、ジニアスに向かって大きく跳躍する――。
「ジニアス!」
 リファの悲鳴が辺りに響く。
 それに反応して、子供たちが避難した家から、クロマユの「ピー!」という悲鳴も聞こえた。
 また自分の変な力のせいで誰かを傷つけてしまう――リファがぎゅっと目を閉じたとき、それは起きた。閉じたまぶた越しに、緑の光が目の前で発光しているのがわかる。緑深い草の香りもする。そして、自分のおでこがいやに熱かった。
「お?」
 ジニアスの間抜けな声がして、リファは慌てて目を開けた。
 そこには、発光する緑色の六角形の傘のような〝盾〟が張られ、飛び掛かっているドミニクからジニアスを守っていた。よく見ると、その盾には蔦模様が描かれている。それは、オオガミの祭壇に掘彫られたものとよく似ていた。
「なん?」
 リファは思わず首をかしげた。
「これ、お前がやったのか?」
 ジニアスに問われ、慌てていただきますの形の片方の手を顔の前で横に振る。
「わ、わからない……」
「お前のおでこ、光ってっけど」
 言われて、リファは慌てておでこを手で押さえた。
「バリアみたいなものか? すげえな」
 ジニアスはこんなときだというのに、興味深げにその盾へと触れた。しかし物理的に触れることは叶わず、まるでレーザー光線に手を差し込んだときのように、感触も熱もなかった。手で遮られた部分のラインだけが消失しているが、ほかはつながっている。
 ドミニクは、突如現れたそれにふんと鼻を鳴らす。
『小(こ)癪(しゃく)な人間らしいな。今度こそ噛み切ってやる』
 ドミニクの黒い毛が、ざわりと逆立った。
『その盾ごと粉々にしてやろう』
 黒い瞳が、ギラっとジニアスを睨みつけた。
 再び、ジニアスの頭上にドミニクが跳躍する――。
『ドミニク!』
 咆哮が響いた。その声に、リファは思わず反応して前に出る。
「あ、馬鹿、お前――」
 ジニアスが慌てるが、その手をすり抜けてリファは前へと飛び出した。
 視界に映り込む、輝かんばかりの銀色の毛並みと、美しいオッドアイが、ドミニクとリファの間に、さっと割って入った。
「ハンス!」
 リファはその体躯に抱きついた。久しぶりに嗅ぐ、獣くさいが温かいにおい。
『リファ、離れなさい』
 ハンスの落ち着いた声に、緊張していたリファは全身から力が抜けた。
 そのリファが尻もちをつく前にジニアスが受け止め、子供のようにかかえ上げる── 子供なのだが。そして数歩後ずさると、ドミニクとハンスから距離を取った。
 先ほど子供たちを非難させた家のドアの隙間から、「ピー!」とクロマユが鳴く声が聞こえてくる。心配させてしまっているようだ。
『ボス、邪魔をするな』
 砂煙が立ち込めるなか、ハンスは静かに口を開いた。
『ドミニク、どうしたんだ。お前らしくない』
 さすがのドミニクも、ハンスの登場に戸惑っているようだった。先ほどまでの威勢はどこかへしぼみ、怯んでいるようにも見える。
『お前は口は悪く保守的だが、誰かをいたずらに傷つけるような性格ではないだろう』
 穏やかで広大な海のような声だ。
 ハンスのその言葉に、リファはこくこくとうなずいた。
 ドミニクはたしかに口が悪く、よそ者のリファに意地悪だった。けれどそれはあくまで口だけで、リファを傷つけ無理やり群れから追い出そうとは決してしなかった。コマとライムギの寝相が悪すぎて、リファが生きた毛布を失って寝ながら震えていると、彼がため息まじりにそっと寄り添ってお布団になってくれたのは、ほかでもないドミニクなのである。
(そうだよ、ドミニクはあんなこと、本気で言わない)
 リファはジニアスにしがみつきながら、祈るようにドミニクを見た。
『わー! ボス、待って待って!』
 ここでやっと登場したのが、コマとライムギである。
『違うんです! ドミニク兄は悪くないんです!』
 ライムギが慌ててドミニクとハンスの間に入る。
 二匹の登場で、場の空気から緊張が一気に消え去ってしまった。
『ドミニクにいちゃんは俺の茶番に付き合ってくれただけなんです~!』
 コマがひいひいと半泣きでドミニクに寄り添った。
「結局なんなんだ?」
 緑の盾がくっついたままのジニアスが問う。
 コマとライムギはきまずそうに目配せし合って、もごもごと口を開いた。そのうしろで、ドミニクがあきれ気味にはあとため息を吐いている。
『ドミニクにいちゃんが悪役で、リファを脅(おびや)かす役をして』
『そんで頃合いを見て、コマが助けに入るって計画だったんです』
『だから、だから……ドミニクにいちゃんは悪くないんだぁ!』
 コマが必死で言いつのり、最後にはえーんと泣きだしてしまった。
 説明を受けても、唖然とするリファと、言葉がわからないので黙って狼の鳴き声を聞いている緑の盾付きジニアス。
『お前たち……』
 そうしてコマとライムギ、ついでにドミニクも、ハンスからこってりと絞られたのだった。
『だからお前はコマとライムギに甘すぎると普段から言っているだろう』
 叱られてしょんぼりしているコマとライムギをよそに、叱られてもどこ吹く風のドミニクにハンスがあきれたように言う。
『あれは私のすぐ後にできた弟たちですから。甘やかして当然では』
 つーんとツンデレのような態度で、ドミニクはハンスに反論した。
『まったく……』
 そんなドミニクに、さすがのハンスもこれ以上言うのはあきらめたようである。
『リファ、驚かせてすまなかった』
 ハンスがすいっとリファのもとへとやって来て、リファの顔に額を押しつける。
「びっくりしたけど、ドミニクは本気であんなこと言わないってわかってたよ」
 ジニアスに飛び掛かられたときは、さすがにだめだと思ったが――そう思ってジニアスを見ると、自分にくっついている緑の盾を興味深げに眺めていた――かと思えば、拳でガンガンと叩いて壊そうとしたりしている。
『ふん、お前のような小娘にわかられてたまるか』
 ドミニクがいつものように意地悪を言った。
『まあ今回はあのふたりに付き合いすぎたことは認めよう』
 まるで謝罪するように、リファに頭を差し出した。
「ゆるしゅ!」
 リファは満面の笑みで、黒く艶めく額をそっとなでたのだった。
「ピーッ!」
 ばたんっと音がして、見ればクロマユがこちらへと飛んできている。
「クロマユっ」
 リファがぎゅっとその黒い物体を抱きしめると、ぶるぶると震えて短い手足でぎゅっと抱きしめ返された。
 その様子をコマが見て、『あっいいなあ』とぼやいている。そんなコマをライムギが『いい加減に反省しろ!』と叱っていた。

* * *

「私は、騒ぎを起こしてもいいですよ、と言ったわけではないのですが」
 珍しくアルバに嫌みを言われた。
 城に戻ると、巨大な狼の群れが街でひと暴れした報告がすでにアンガッサに届けられていて、仁王立ちで立つ彼にしこたま怒られた。
 その後アルバの私室に呼ばれ、この流れとなったのだ。
「あなたたちが大騒ぎしてくれおかげで、私がアンガッサに怒られたんですよ」
 愚痴だった。リファとジニアスの前に、すでに説教された後だったらしい。
「それに、もしあの美しい銀狼が見れるなら、私だって仕事を放り出して同行いたしましたのに……」
 本音はそこらしい。
 リファは緑の盾付きジニアスは、ソファに座ってアルバの愚痴を聞かされていた。
 リファの膝の上では、疲れたクロマユがぐうぐうと寝息を立てて眠っている。
「そ、それで、あの銀狼の群れはどちらへ?」
 そわそわと期待しているところ悪いが、ハンス率いるドミニクたちはもうアルフレート国を出て森に帰っている。リファにお願いされると、皆はひとなでずつされて満足げにさっと引き上げていった。
 つまりはすべて、リファ恋しやなでてほしくてこらえられぬ思いが引き起こした騒動だったのである。
「そうですか……残念です……」
 そのことを伝えると、アルバは目に見えて落ち込んだ。
「もう帰っていいか」
 ジニアスがさすがに面倒になったのか、そう切り出した。
「いいわけないでしょう」
 それをすばやく却下したアルバは、今度はジニアスをしみじみと観察しだした。
「いったいなにをつけていらっしゃるのです」
「見えてたの?」
 アルバの言葉に、リファは思わず尋ねた。
 城に戻ってから誰もジニアスの緑の盾にツッコまないので、リファとジニアス以外には見えていないのかと思っていたのだ。
「見えていないわけないでしょう。アンガッサもきっと見えていたことでしょうが、どうせあなたたちに聞いても明確な答えは返ってこないと思って触れなかったんですよ、たぶん」
 たしかにそれは事実だが、それはそれでひどいような気もする。あのアンガッサならやりかねないが。
「なんか出たんだよ」
「見りゃわかりますよ」
 ジニアスとアルバは、芸人コンビさながらの阿(あ)吽(うん)の呼吸である。
「おそらく、オオガミ様の力でしょうが……、しばらくこのことは内密にお願いします」
 アルバは少し考えてそう結論づけたが、すでにこの盾をくっつけたまま城の中を歩いた後である。
「緘(かん)口(こう)令(れい)をしきますから大丈夫です。我が民は口が堅いんですよ」
 口許に白魚のような人さし指をあてたアルバは、とても無邪気に笑った。

「静かだな」
 ジニアスが歩いている回廊を見渡して言う。
 アルバの部屋からの帰り道。すでにアルバからの指示が行き渡っているのか、人の出入りが制限されているようだった。普段なら城に仕える多くの人々とすれ違うこの道筋で、誰ひとりとしてすれ違うことがなかったからだ。いつもはがやがやと賑やかな場所がしんと静まり返っていると、まるで知らない場所のように感じる。
「リファ」
 それぞれの部屋にわかれようとしたところで、リファはジニアスに呼び止められた。
「体調がよくないだろ」
 言って、リファの目線に合わせて膝をつく。こういうことをさくっとやれてしまうあたり、いい男だなあとリファは感心した。
 ぼんやりしていたら、自然な仕草ですっとおでこで熱を測られた。そういえば、この国に入る前の荒野でも同じようなことがあった。
「なんでわかりゅの」
「いつも以上に舌足らずなんでしゅ」
 ジニアスがふざけるが、今は脇腹に一発お見舞いする気力もリファにはなかった。
 ジニアスのこの盾は、もとはオオガミ様の力だが、それを発現させたのはきっとリファである。クロマユから授かった魔法の力とでもいえばいいだろうか――リファはそう確信していた。
「熱があるっていうより、心臓がいつもよりどくどくいってりゅ」
 素直に答えると、ジニアスはくいっと片眉を上げて不機嫌そうな顔を浮かべた。
「それ、大丈夫なのか」
「うん」
 いつもより鼓動が早いだけで、ほかに不調はない。
 不思議な力を使った反動だろう。
 ジニアスはなにか言おうと口を開いたが、しばらく逡(しゅん)巡(じゅん)してまた口を閉じた。お小言でもい言おうとしたが、早々に休ませるのがいいと判断したらしい。
「なにかあったらすぐ呼べよ」
 リファの頭をくしゃくしゃっとなでつけて、盾をくっつけたまま部屋へと戻っていった。そのうしろ姿はだいぶシュールだったが、リファはあえて空気を読んだ。
 ちなみにジニアスの〝盾〟だが、夜になっても発動したまま消える気配もなかった。なのでジニアスは、盾をつけたままシャワーを浴び、部屋で食事を取ってベッドに入った。
 ある意味〝盾〟との短いランデブーを過ごしたジニアスだが、迷惑がるどころか本人いわく、「ウケる」だそうだ。

 部屋に戻ると、リファはひと眠りしようとベッドへと転がった。
 外はもう夕焼けで、窓から美しい朱色の空が覗いている。
 眠くて体は疲れているのに、好奇心が抑えられない。
 心臓のトクトクという高鳴りは、魔法を使ったせいだけでは決してないのだ。
「ちょっとだけ……」
 リファは眠る前のベッドで、何度か〝盾〟の発動を試してみた。
 あのとき、ジニアスを助けようとしたときのことを思い出しながら。けれど、手をどう動かしていたかが思い出せない。リファは蜘蛛男のように手首をくいっと曲げてみたり、拳を突き出してみたり、ちちんぷいぷいとしてみたり、あれこれ試してみたがあの盾が出ることはなかった。
「ええええ」
 リファはがっくりとうなだれて、ベッドへと倒れ込んだ。
 まさかの一度だけだというのだろうか。クロマユの助けが出なければ、やはり発動できない魔法なのだろうか。
(そんなの残念すぎる……)
 天蓋ベッドの天井を見つめながら、リファは困り果ててやけくそでつぶやいた。
「出っておいで~」
 ――パピュンッ。
 かわいらしい効果音と共に、それは現れた。
 リファの頭上に、ジニアスにくっついたものと同じ傘のような六角形の緑色の決壊である。それはふわふわとリファの頭上でクラゲのように揺れていた。
 ――出た。ちゃんと出た。
 リファはむずがゆい心を爆発させるように、きゃはーっと笑い声を上げた。
 眠っていたクロマユが、びくりとして起き上がる。
「すごい! 七度目の人生で初めて魔法が使えた!」
 動物と話せること以外は、平々凡々な人間として終わった六度の人生。
 まさかここにきて、魔法が使える展開になるとは思ってもみなかった。
 一気に無敵感が増して、リファは紅潮した頬で、ぐっと両拳を握った。
(私、今度の人生では絶対に幸せになろう――そして、老衰で死にたい。)
 今まで怖くて考えようとしてこなかった願いを、リファは心の中ではっきりと言葉にした。
 調子に乗って、作れる限り〝盾〟を作ってみた。
 それは夜だとなおさら強く発光して見え、部屋中が緑の光にあふれている。丸くて薄っぺらい膜のようなものが魔法陣で描かれると、それを横で眺めていたクロマユがぴょんと飛び乗る。盾はぼよんと変化して、トランポリンのようにクロマユが跳ねた。
「えっ」
 リファは思わず声を上げた。
 てっきりクロマユが盾をすり抜けるかと思えば、ぽーんと跳ねて驚いたのだ。ジニアスの盾は攻撃を防ぐとき以外はレーザー光線のように実体のないものだったが、今クロマユが跳ねている盾には実体があるということだ。
(すごい、感触と弾力がある盾なのか)
 ほかにも、硬い盾ややわらかい盾、ドーム形のような盾に、四角い部屋のような盾と、いくつかの盾を試して、リファは心地いい疲労感と共に眠りについた。
「クロマユがくれた魔法のおかげで、ジニアスを助けることができたよ……。ありがとう」
 眠る前に、そんなことをクロマユに話しながら。

 ――その夜。
 リファは小動物の目線で城の中を動き回る夢を見た。
 最終的にリファは、神官アルバの部屋に入り込んでしまい彼に見つかって悲鳴を上げられる夢だった――。
 朝日で目覚めたときには、眠ったのに休んだ気がせず、リファの体はぐったりと重かった。

* * *

「昨夜、私の部屋にネズミが出まして……。思わず悲鳴を上げてしまいました」
 朝食の席で、アルバがジニアスにそんな話をしているのを耳にした。
「すごいんですよ、まるで観察するように私をじっと見ていて……ネズミのくせに知性のあるような瞳でした。怖すぎる……」
 自分が言った言葉にぞっとしたのか、アルバはひとりでひいいと悲鳴を上げている。
 それを聞きながら、リファは今朝作ったばかりの卵焼きをひと切れ口に入れた。
(変なの、私の夢とシンクロしてるみたい)
 おかしなこともあるものである。
「お前ネズミだめなの? そんな普通の人間ぶるなよ」
 ジニアスはジニアスでひどいことを言っている。
「そういえば、砂漠のオリエイエから使者が参られるそうでして」
 そんなジニアスを黙らせるためだとでも言わんばかりに、アルバはドヤ顔で脈絡なく切り出した。
「オリエイエってジニアスの故郷の?」
 リファは次には焼いた魚を口に放り込みながら、アルバに尋ねる。
「ええ、ええ。砂漠のオリエイエ。成り上がりの軍事国家ですが、その国力で他国を監視する役を担っている、あの嫌われ者のオリエイエです」
 リファの問いに、アルバは何重もの味付けをして返した。
 聞いているジニアスの目が冷ややかである。
「なんでそんな国から使者が来るの?」
 知りたいのはそこである。
「言ったでしょう。他国を監視する役割を持つ国であると。オオガミ様の復活が近いと、どこからか情報を掴んできたようでして。我が国の視察を希望されるとのことです」
 アルバは困りましたねえ……とつぶやくが、まったく困っていない様子で長い脚を組み替える。
 アルバの今日の衣装はやはり黒の長衣に、ベルベット素材のベルトとガウン。すべて黒色だが、長衣にキラキラとスパンコールが輝いているので野暮ったく見えない。というかきっと、葉っぱ一枚で股間を隠しているファッションであっても、アルバなら美しく着こなしてしまうのだろう――言いすぎた。さすがにそれは通報案件である。
 葉っぱ一枚でリンボダンスするアルバの姿がリファの頭の中に浮かんでいるが、本物は大真面目な顔で話を続けた。
「オオガミ様は、他国からすれば禍々しい力を持った巨大な 神なのですよ」
 アルフレートで過ごしていれば、まずそうは思わない。それほどこの国の人々は、オオガミ様を身近に感じ、感謝の念を忘れずに生きている。街で出会ったビケのように、皆が温かくオオガミ様を受け入れているのだ。
「かつて大陸を統べていた巨大な国を一日にして滅亡させ、その魔法は百年経った今も土地をむしばみ、命を育てられない土地にしまったと。話だけ聞くと、恐ろしいでしょう? その神に復活の兆しがあるようでは、それはそれは皆さん心配なさるでしょうからね」
 今日は結わずに垂らした金色の美しい髪を、アルバはつまらなさそうに指先でもてあそんでいる。
「オリエイエから使者が視察に来たところで、オオガミ相手になにができるもんでもないだろ」
 ジニアスが朝の一杯を飲み干しながら言う。少し匂いを嗅がしてもらったが、相当強いお酒だった。リファの真(ま)似(ね)をしてくんくんと匂いを嗅いだクロマユはそのまま香りで酔ってダウンしたほどだ。
「まあそうなんですけど。他国に目をつけられると厄介ですから……」
 嫌な思い出でもあるのか、アルバははあと深くため息を吐いた。
「まあ私は最高位の神官なので。外交は弟のお仕事なんですがね。毎度こういった問題が浮上するたびに疲労困憊になっているアルダンがかわいそうでかわいそうで……」
 アルバは困ったように言った。
 その様子から、本音らしい。
「アルバってほんとにお兄ちゃんだったんだね……」
 思わずつぶやいてしまったりリファに、アルバはきれいな作り笑いを浮かべた。その笑顔でクロマユをわし掴みにすると、リファの顔をクロマユでごしごしと拭いた。リファの発言が気に食わなかったらしい。
「来たら来たで、城下町のオオガミ様ビスケットでも出してもてなしてやればいいだろ」
 ジニアスがそう言うと、アルバが「えっなんですかそれは」と、案の定食いついた。
 ビケの店が繁盛しそうな予感である。
(ジニアスの故郷か……)
 砂漠の国だと聞いた。ジニアスのような美しい人がたくさんいるのだろうか。それともジニアスは国でも異端なほどきれいな部類なのだろうか。大きく枯れることのないオアシスを国にしてまだ数百年の歴史しかないのだと、ジニアスから教えてもらったことがある。もともとは砂漠をさまよう遊牧民族だったらしいが、安住の地を求め、たどり着いたオアシスで国を興したのだそうだ。
 砂漠の楽園でもあり、そして、スパイスの国でもある――。
 リファは思い立ったように顔を上げた。
「アルバ、オリエイエにお願いがあるんだけど……」
 リファの提案に、アルバは大真面目にうなずいた。
 オオガミ様の関わることでしたら、なんだっていたしましょうという気合を感じる。
「珍しいスパイスを樽二個分ほど詰めて……、分けてくれたらうれしーな」
 秘儀、きゅるるんである。
 アルバは一瞬無表情になった後、ジニアスのようにリファの髪をぐしゃぐしゃぐしゃっとかきまぜた。
 やめろお、乱れる。