犬の遠吠えが聞こえる。
 長く高く澄んだ鳴き声が、リファの耳に届いた――。

「目が覚めたか」
 穏やかな声が覚醒を促す。
 リファがゆっくりと視線を巡らせると、ジニアスがすぐそばにいた。
「喉、乾いてないか? 水があるぞ」
 言われ、そこでやっと喉がガサガサしていることに気づく。
 うなずくと、ジニアスは丁寧にリファを抱き起こして、枕もとのデカンタから水を注いでくれた。
 グラスには刺繍のされた皮のベルトが巻かれ、触れても冷たくないようになっている。注いでもらった水を飲み干してやっと、リファは全身が楽になっていることに気づいた。
「覚えてるか? あのアンガッサとアルバって男が、お前の看病のために城に招いてくれたんだ」
 ジニアスの膝には難しそうな本がのせられている。
 リファのそばについてやりながら、読書をたしなんでいたらしい。
「ジニアス、本読むんだ……」
 意外である。雑な性格から、そういう静かな趣味からは縁遠くみえるのだが。
「俺は読書家だぞ」
 ほんとがどうかわからないが、今はこの国についての本を借りてきたという。アルバという男が真っ黒な服装だったように、この城は世にも珍しい黒い城だとジニアスが教えてくれた。
「黒い城?」
「外壁も内壁も、床のタイル以外はほぼ黒と金色で装飾されてる。色んな国に行ったが、こんな城初めてだ」
 だが、今リファが寝かされていた部屋は普通の内装と変わらない。淡いクリーム色に小さな小花が舞った壁紙と、木でつくられた天蓋のベッド、調度品も木製で、黒く塗ってあるわけでもない。白いふかふかの絨毯が気持ちよさそうである。
「この部屋は来客用だそうだ。城で暮らす人間の部屋や謁見の間はなんかも、黒い内装らしい」
 リファは王族には詳しくないが、黒い城というのは初めて聞いた。
「白い色は神様の色、黒い色は人間に与えられた色、って考え方らしいな」
「なるほりょ」
 リファが返事すると、ジニアスははっとした。病人を前にしゃべりすぎたと、罰が悪そうな顔をする。
「熱は下がったがまだ休んでろ。食べられそうなら、果物かなにかもらってくるぞ」
 ジニアスにそう言われ、リファは素直にベッドへと戻った。天蓋つきのふかふかのベッドである。美しいミントグリーンの寝具は肌触りがよく、温かい。リファは首もとまで寝具を引き上げると、やわらかなベッドを堪能した。
 そこで再び、遠吠えがリファの耳に届く。

「ハンス」
 眠りから覚めた今ならわかる。
 この遠吠えはハンスのものだ――。
「ああ、ハンスたちには国の外で待っていてもらうことにした。オオガミの存在はあまり彼らにはあまりいい影響を与えないらしいからな。アルバの言うことだがら、本当がどうかはわからないが」
 ジニアスの言葉を右耳で受け流し、リファはベッドから飛び降りた。
 遠吠えが聞こえる方向の窓を開け、じっと耳を澄ます。
 遠吠えに言葉はない。リファはただ耳を傾け、彼らの遠吠えを聞いた。
「アオ――ン!」
 それから、彼の遠吠えに参加してみた。
「アオ――ン!」
 リファの遠吠えに呼応するように、ひとつ、またひとつと遠吠えの声が増えていった。コマやライムギ、そしてクレアたちだろう。
 うしろでジニアスがおったまげている気配がする。
 そんなものおかまいなしで、リファは声を張り上げ続けた。
 自分は無事です、大丈夫、心配しないで、と気持ちを込めて。

「アオ――ン!」
「何事ですか」
 リファが遠吠えをしていると、アルバが扉を開けて部屋へと入ってきた。
 そのうしろには貫禄あふれるアンガッサと、見知らぬ双子がついてきている。
 双子はアルバと同じくとろけるような金髪と彼よりもずっと濃い金色の瞳の双子である。言わずもがな美少年だ。ふたりとも癖ひとつない金髪を眉上で切りそろえ、昭和のおかっぱのような髪形をしていた。そしてその髪形が恐ろしく似合っている。美形の恐ろしさここに極まれり。リファより何歳か年上のようで、ふたりとも落ち着いた雰囲気でアルバとアンガッサのうしろについていた。
「彼女なりのコミュニケーションだ」
 リファの行動にドン引きして顔を引きつらせていたジニアスだが、アルバに対してフォローしてくれた。なかなかにいい奴である。
「まだ病み上がりの身でそんな大声を出すな」
 アンガッサがまるで医者のようなことを言いながら、リファが開け放った窓を閉めた。部屋中に入り込んでいた冷たい空気の流れがなくなり、暖炉の薪が弾ける音が静かに響く。
「ベッドに戻りなさい」
 今度は父親のようである。厳しい顔をしながら、アンガッサはリファをベッドへと誘導する。大声を出したことで体力を消耗したリファは、おとなしくベッドへと横になり深く息を吐きだした。
「素晴らしい。あなたはあのようにして狼たちと意思疎通をはかっていらっしゃるのですね」
 リファの体調の悪さなど気にもならないようで、アルバは感嘆の声を上げてアンガッサを脇へと押しやった。
「あの狼たちとはどのように出会ったのです? 彼らは本来、人に従う生き物ではない。とても気高い獣のはずです。とくにあのボスの銀狼の貫禄といったら、とても美しかった……」
 アルバはうっとりと金色の瞳をとろけさせた。
「気持ちわる」
 ジニアスがぼそっと正直に漏らす。リファも同感であるがハンスの貫禄うんぬんには同意する。上司があまりにも気持ち悪いので、心なしかアンガッサも居心地の悪そうな顔で立っている。
「また叔父上の気持ち悪い癖が出た」
「狼なんてオオガミ様の餌になるってのに、そんなに好きになっちゃって大丈夫なのかね」
 突然双子が毒を吐き出した。リファは驚いてそちらを見るが、ふたりは肩をすくめてアルバへとまとわりついている。
「なにをおっしゃいます。狼たちがオオガミ様の糧となるのは、彼らが本能でオオガミ様にはかなわないとわかっているから。自らその尊い御(おん)身(み)の糧になりたいと願って、彼らはオオガミ様の寛容なお口の中へと飛び込むのです」
 にこにこと微笑みながら双子たちに応えているアルバを見て リファとジニアスは同じことを思っていた。宗教は怖い。
「紹介が遅れましたね」
 リファとジニアスの視線に気づいたアルバが、双子たちの肩にそれぞれ手をかけた。
「彼らはこのアルフレートの王位継承者です。右がソーマ、左がトーマといいます」
 ようするに王子様である。
 リファは七度目の人生で初めて垣間見る王族に、横になっていながらも思わず居住まいを整えた。
「似てるな」
 ジニアスが並んだ三人を見比べて言う。たしかに似ている。顔のパーツや、髪の色や瞳の色も、親子かというほどそっくりである。
「彼らは私の弟の息子なのです」
「ああ、アルフレートは長子が神官になり、その次の兄弟が王に即位するんだったな。世界でも稀な、王の上に高位の身分が存在する国政だと聞いたことがある」
 ジニアスの言葉に、リファはへえと、感心した。そんな国が存在するのを聞いたのは、六度の人生を経てもこれが初めてだった。
(仮にも相手は王族なのに、ジニアスは緊張したそぶりも見せないな……)
 稀代の美貌のなせる技なのか、それとも経験値の差なのか堂々としたものである。今なんてリファの横になるベッドに腰かけて腕を組んで彼らと対峙している。ジニアスのほうが偉そうである。
「このアルフレートは、礎にオオガミ様がおりますれば。かの存在に最も近しい人間が、この国で一番の権威を抱くことができるのです。代わりに、婚姻を結ぶこともできなければ、子供を持つことも叶いません。一生をオオガミ様へと捧げるのです」
「叔父上はこの国で一番結婚が向いてない人種だからそれでよかったよ」
「日が昇って日付が変わるまでオオガミ様と狼の話しかしないような男、結婚相手が気の毒すぎるだろ」
 胸に手をあてて敬(けい)虔(けん)な信者ぶっているアルバを、双子たちが一刀両断している。
「このように、子憎たらしくかわいい甥っ子たちもおりますれば」
 そんな双子たちの肩を無理矢理抱き寄せて、アルバは輝かんばかりの笑顔を浮かべた。
「ゴホン」
 アンガッサの咳払いが響く。
「とりあえずは、彼女が全快するまででもこの城にいるといい」
 リファが、礼を口にしようとしたが、アンガッサはさらに続けた。
「この城は、普段はよそ者など受け入れない不可侵の城。あまり好き勝手に過ごされるな」
 アンガッサの眼光が、めちゃくちゃ仕事ができる上に他人と自分に厳しい上司のそれである。リファの中の社会人〝りほ〟が顔を出して、ひっと悲鳴を上げた。
「わかったわかった」
 アンガッサは当然、リファに言ったわけではない。ジニアスが適当に返事をすると、アンガッサは彼をギロッと睨んで、騒がしいアルバと双子王子を連れて早々に部屋から出ていった。

 リファとジニアスは、一気に静かになった部屋でふうと息を吐く。遠吠えはいつの間にか聞こえなくなっていた。
「体調はどうだ?」
 ベッドに横になりながら窓の向こうを眺めていたリファに、ジニアスが声をかける。リファの額に大きな手があたり、熱がないかはかられた。
「ちょっとつかえ(れ)た」
「そうだな、俺もだ」
 まるで嵐のような血縁トリオに、リファとジニアスはもう一度深く息を吐きだした。
「少し顔が熱い。熱が出てきたかもな」
 その声に少しの焦りを感じ取った。リファは自分が体調を崩したせいかと申し訳なくなって、小さな声で謝罪した。
「ちっげーよ。ガキが変な気遣ってないでよく休め」
 リファの絹のような髪を励ますようにぐしゃぐしゃとなでて、ジニアスは笑った。
 話を聞くと、リファが気を失った後、あのアルバはジニアスを暗に脅したらしい。
『せめてひと晩だけでも我が城でお休みになりませんか、美しい人』
 それはジニアスに言ったのか気を失っているリファに言っているのか定かではなかったが、なんにしてもジニアスはアルバからの申し出を断ろうと思っていた。リファの体調はもちろん心配だがよく効く常備薬は持っているし、得体のしれない城へ上がることへの不安要素が強い。今はハンスたちと離れるべきではないと判断したのだ。
『この申し出はオオガミ様のものと受け取ってくださってかまいません。もしお断りになれば、オオガミ様はきっと悲しまれることでしょう』
 アルバは悲しそうな顔をして、次にこう続けた。
『ところで、悲しみは腹を空かせることをご存じですかな?』
 なめらかな色気のある声で、アルバはちらりとハンスたちへと目配せした。
 脅迫である。
 オオガミ は狼を食べる神――今ジニアスとリファを守っているのは、ハンスたち率いる気高い銀狼の群れである。
 ジニアスは仕方なく、リファを連れて城に上がることにしたのだった。


「上品そうな顔して相当腹が黒いぞ。気を許すなよ」
 ジニアスから話を聞いて、リファはハンスたちと別行動になって本当によかったと思った。少なくともこうして離れている間は、彼らに危害が加わることはなさそうである。
(そもそもオオガミ様なんて存在するのか?)
 アルバや双子王子たちはともかく、ジニアスまでまるでオオガミ様が存在するかのように話をする。六度の人生で、そのような存在はついぞ目にすることはなかった。
(いや待て。私は今動物たちと話ができるぞ?)
 自分のような者がいるならば、〝オオガミ様〟も存在しているのかもしれない。
 少しぼんやりとしてきた頭でそんなことを考えていると、ジニアスの冷たい手が額にそっと置かれた。
「もう城に上がっちまったんだ。こうなったら遠慮なく休めよ」
 リファは自分が気絶している間に、城に上がり込んでしまったことを気に病んでいると思われたらしい。にっと笑ったジニアスに、リファは小さく笑い返した。
 朝露に濡れた花が綻んだような笑顔に、ジニアスは一瞬動きを止めた。
「末恐ろしい奴だな」
 その笑顔がとんでもないと、ジニアスはおもしろがるように笑い返した。



 その日の夜、リファは奇妙な夢を見た。

 夜になると少し熱が上がり、喉が渇いて起き上がったときのことだ。
 時刻は深夜を回っていた。月明かりがレースカーテンのかかる窓から差し込み、部屋が青白い空気に包まれている。なんとなく誰かいるような気配がして、リファはぐるりと部屋を見回した。
(なんだろう、ネズミかな?)
 リファのもふもふおびき寄せスキルは、もちろんネズミにも有効である。病原菌を持っている可能性もあるので、現れたものすべてをなでて愛でるわけにはいかないが、基本はちょっとした食べ物を与えることで許してもらえる。
 この城は美しく見る限りとても清潔だが、広大な土地を有する分、ネズミだってきっとどこかにいるだろう。城なら地下牢(ろう)などもありそうだ。
 リファは水を飲みながらしばらく部屋を見ていたが、ネズミが現れることはなかった。
(寝よう……)
 空になったカップを置いて、枯れ葉に潜り込む芋虫のように分厚いブランケットの中に潜り込もうとした瞬間だった。


 ――ヒュッ。

 レースカーテンの向こう側を、すばやくなにかが横切った。
 動きを止めてそこを見る。しかしなにかがまた横切る様子はなく、リファはあきらめてベッドに横になった。

(なんだったんだ? スカイフィッシュか?)

 そういえばそんな未確認生物がはやったな、と思い出した。この世界なら、存在していてもおかしくないような気がする。
 けれどリファの視界に一瞬だけ映ったそれは、リファの顔ほどもあったような気がする。真っ黒でふわふわした丸っこいなにか のようで、スカイフィッシュにはほど遠かった。