* * *




 ――朝露に濡れた草で服を濡らさないようにしながら、リファは洞穴から出てうーんと背伸びをした。
 早起きの小鳥たちが飛んできて、リファの肩に止まる。

『りちゃ、なでてえ』
 まだ舌足らずな声がかわいい。
 リファは小さすぎる小鳥の背中をそっとなでてやった。
『きょうははれるよー』
 リファの肩で毛づくろいをしながら、そんなことを教えてくれる。
「そうなの? よくわかるねえ」
 リファが感心したように言うと、その小鳥はえっへんとかわいらしく胸を張った。ふっくらとした胸毛がかわいくて、リファはその小鳥をわしっと優しく掴んでもう片方の指先でこしょこしょとなでて堪能した。
『きゃあーあ』
 かわいらしく楽しそうにぴちちと鳴いて、小鳥はリファに赤い木の実の贈り物をくれた。
 森の動物たちはとんでもなく友好的だった。野生だからと警戒していたが、リファが思っていた以上に親切で人懐っこい。
『リファおはよー』
 洞穴から、一番若い狼・コマがまだ眠たそうな顔でのそのそとやって来る。
「コマ。おはよう」
 一番若いとはいえ、その体長は四足の状態でリファより大きい。コマはボスであるハンスに一番似ていて、その瞳はオッドアイだ。
『また一番最後だったあ』
 コマはとんでもないお寝坊さんで、生まれてこのかた起きるのは一番最後、寝るのは一番最初しか体験したことがないらしい。だからなんとかみんなより早く起きようとがんばっているらしいのだが、いつも皆が朝の狩りに出かけた後に目覚めてしまうのだ。皆、年の離れたコマがかわいくて、起こせずに狩りに出かけてしまうのだという。
 人間の家族みたいだなあ、とリファは驚いた。
 実はあの日から、ハンスたちは律儀にリファの世話をしてくれている。怪我などとっくに治ったというのに、クレアもハンスも、ほかの狼たちも、リファを快く家族として迎えてくれている。
 寒い夜は狼たちの毛皮に包まれてぬくぬくで眠り、昼は皆で移動しながら食べ物を調達する。彼らは広範囲に渡る縄張りを移動しながら、リファのあてどない旅に付き合ってくれていた。
 リファはコマを連れて洞窟を出ると、覚えた道を進んだ。
 もともと冷たい空気が、さらに冷たくなっていく。靄(もや)がかかる森を抜けると、例の憩いの川にたどり着いた。
 その川で朝の洗顔をしていると、うしろが騒がしくなる。振り向くと、ハンスが率いる狼の群れが現れた。
『リファ、コマ、起きたのか』
 朝日と靄の効果もあって、ハンスの美しさが際立っている。が、口の周りは血だらけである。クレアもほかの狼たちも同様に、鼻先まで真っ赤に染めている。
「おはよう、ハンス。みんなもおかえりなさい」
 朝の狩りは成功だったようだ。
 聞くと、大きなイノシシを獲ったそうだ。食欲旺盛な彼らを満足させるほどの大きさだったのだろうと思うと、彼らの強さにもぞっとする。味方でよかった。
『えー! 俺の分は!?』
 コマが不満げに声を上げると、『お前が朝ちゃんと起きないからだろ!』とすぐ上のお兄ちゃんであるライムギが叱った。
『ちゃんとお前の分も取ってあるから安心しろ』
 ちゃんとフォローも欠かさない。いいお兄ちゃんなのである。
 ほかの狼たちはコマをライムギに任せて、狩りと食事で乾いた喉を川の水で潤している。
 靄が少しずつ晴れてきた川べりの大きな岩に腰かけながら、リファは皮袋から取り出したレモンをかじった。
 川と森を挟んだ向こう側に、てっぺんのとんがった大きな山が見える。〝りほ〟のときテレビで見た、マッターホルンのような山である。雪のかぶるてっぺんから厚い雲が晴れていく。そこから美しい青空が顔を覗かせるのを見るのが、リファは大好きだった。
 あの山を越えた向こう側は、この資源が豊富な森とは対照的に、荒野が広がっているのだという。
 百年前、向こう側の国で祀(まつ)られていた神様が、草一本すら生えない呪われた地にしてしまったのだそうだ。これをクレアから聞いたリファは、ふぁんたじいと思わずつぶやいてしまった。
 その神様は〝オオカミ〟の姿をしていて、普通の狼を食べてしまうのだというから、ハンスたちは近づいたこともないのだという。とはいえ、その神様は力を使い果たして今は眠っているというのだから、ハンスたちが食べられる心配もなさそうだ。
『リファ』
 遠くにそびえる山のてっぺんを眺めて、呪われた地を想像しているとすぐ真うしろからハンスに呼ばれた。
「ぐえっ」
 上の空でレモンをかじっていたリファの首根っこを、ハンスは口でくわえてぐいっとうしろに引っ張ったのだ
 いきなりのことに、咀嚼していたレモンの破片が口から飛び出していく。地上波テレビならキラキラと加工がしてあるほど美しい放物線を描いたそのレモンの向こう側で、大きな水しぶきが舞った。

「!?」

 ハンスはリファを草むらの陰に突っ込むと、彼女を守るように前に立つ。
 驚愕のあまり声も出ないリファにクレアが寄り添い、若い狼たちがハンスの一歩うしろに並んだ。
 狼たちの隙間から、風になびく赤い髪がリファの視界に入り込む。

 美しい清水の中央で、ひとりの男が数人の男たちに囲まれていた。
 取り囲んでいる男たちの様相は、山賊のそれである。全員が屈強な肉体に、くたびれた服と防具を着込み、手には全員剣が握られていた。
 その剣の切っ先を向けられている赤銅色の髪の男は、この森に似つかわしくないほどの美貌の持ち主だった。遠目から見てもその完璧な美しさがわかるほどの容貌だが、その口もとを不愉快そうにゆがめている。身にまとう服は薄汚れてはいるが、細かい意匠が施されたとてもいい品だとわかる。その手に握っているこの国ではあまりみない細い刀身の剣は、まるで日本刀を彷(ほう)彿(ふつ)とさせる造りだ。リファの目から見ても、山賊が目をつけるのも納得の獲物だ――。
 いきなりの乱入者に、水を飲みに集まってきていた動物たちが散り散りに逃げていった。リファに気づいた何匹かのリスやウサギは、ここにくっついていたほうが安全だと言わんばかりにリファの背中に張りついてきた。
 リファを守る立派な銀狼たちを見れば、その選択は正しいというしかない。
 おそらくこの場で誰よりも無敵なのは、幼い美少女リファである。

「森で見かける男のなかでもお前ほどの上物は見たことがねえ」
 山賊のリーダー格らしい男が大声で赤銅色の髪の男に話しかけている。
「男は大抵重労働の奴隷行きだが、お前は愛玩用の奴隷として高く売れそうだ。身につけた服も小物も金になりそうだしなぁ」
 ご丁寧に男を獲物に絞った理由を並べ立てている。
 先ほどまで穏やかで平和だった川べりに、げらげらと下品な笑い声が響いた。
 赤銅色の髪の男は不愉快そうに鼻を鳴らすと、日本刀のような剣をにゅんと回して構えた。
「なんだなんだ? やる気かあ?」
 リファは思った。
(これ知ってる。フラグというやつだ)
 漫画やアニメで、あのセリフを吐いた人間は逆にやられてしまうあれである。
「旅が順調にいきすぎて、体がなまっていたところだ。相手をしてやるから遠慮なくこい」
 赤銅色の髪の男はやる気なく首をかしげると、その美しい唇を無感情に開いた。
(こっちもこっちでフラグっぽいな)
 赤銅色の男の挑発に、山賊のリーダーがわなわなと震えている。
「上等だあ! 売っぱらう前にそのきれいなツラ以外バキボキにしてやる!」
 その言葉を合図に山賊たちがわっと男に襲い掛かった。
『略奪だな』
 ハンスが事もなげに言うが、リファはそれどころではない。
「助けなきゃ」
 一対多数など卑怯すぎる。しかも商品にしようというのに顔以外バキボキとはどういうことだ。商品は丁重に扱ってくれ。
 リファの言葉に、ハンスが「手を貸そう」とひと言答えた。
 ハンスが喉をぐるぐると鳴らすと、ほかの狼たちも喉奥からうなり始める。
 それはやがて何重にも重なり、大きな咆(ほう)哮(こう)となる。その咆哮と同時に、狼たちは身を低くするといっせいに飛び出した。
「うわああああ」
 巨大な狼たちに襲われる山賊たちから次々と悲鳴が上がる。赤銅色の男は自分だけが襲われないことに戸惑いながらも、山賊たちががむしゃらに振り回す剣を避けてすっとその騒ぎから身を引いた。彼にとっては不測の事態だっただろうが、判断が早い。
「このくそがああ」
 噛み跡だらけになった姿で、山賊が踵を返していく。
 リファが彼らの死を望んでいないとハンスはわかっていたのだろう。美しい銀毛の狼たちは、致命傷にならない程度の傷だけを与え、山賊たちを追い払うことに成功した。
 ばしゃばしゃと水しぶきを上げて逃げていく山賊たちから視線をはずし、ハンスが赤銅色の髪の男を振り返る。
「……次は俺か?」
 男がすっと刀を構えた――こりゃいかん――リファはハンスを守ろうと、隠れていた茂みからさっと飛び出した。川は浅い。濡れてもブーツの中まで水が入るくらいだろう。
 リファはためらうことなく川に飛び込んだ。

「ハン――」

 ばちゃんっ……。
 このときの微妙な空気を、リファはこれから先も思い出すのだろう。
 川に入った矢先、苔(こけ)の生えたぬるぬるの石 を踏んでしまった子供の体は、簡単にすべって顔面から水面に突っ込んだ。
『リファ!』
 クレアの悲鳴のような声がする。コマがげらげらと笑っているのが聞こえ、後でその鼻をぶにぶにしてやろうとリファは心に決める。
 赤銅色の男は突如現れた美少女が一瞬で水に沈み、その美少女を起こしに走った数頭の狼がいたことに驚いているようだった。
「うぐううう」
 リファは冷たい水に濡れながら、 顔を真っ赤にして起き上がった。正確には、クレアに服をくわえられて起こしてもらったのだが。かなうならば羞恥が去るまでずっと水の中に沈んでいたかった。
『ああ、なんてこと。風邪をひいてしまうね』
 クレアはおろおろとしているが、そもそも水に濡れても分厚い毛皮が守ってくれる狼たちにはリファの緊急事態がわからないようである。コマはけらけらと笑いながら、『ドジだなあ』とリファの周りを走り回っていて、その間、彼が巻き上げた冷たい水がびっしゃびしゃとリファを直撃している。

こらこらこら。



「大丈夫か?」
 目の前に差し出された大きな手をたどると、美しい顔を見慣れているリファですら見とれてしまうような美貌があった。
 赤銅色の髪は背中の半ばほどまで伸ばされ、粗末なひもで結ばれている。乱れた後れ毛ひとつとっても計算かというほど素敵で、その顔は彫刻のようだった。とはいえ、人形じみているわけではない。日に焼けた褐色の肌は健康的で、その燃えるような赤い瞳は活力に満ちあふれていた。髪の色は赤銅色なのに、まつ毛は金色がかっていて、それが炎のような瞳をいっそう際立たせていた。身なりはごくありふれた旅人といった感じだが、その容貌が美しすぎて、異様な雰囲気すら感じ取れる。
「……だいじょうぶでしゅ」
 七回の転生をもってしても初めて見るような上等な男を前に緊張を隠せず、リファは思いきり言葉を噛んだ。
「そうか、だいじょうぶでしゅか」
 男は大真面目にそう答えて、リファの手をぐいっと強引に引っ張った。馬鹿にされているのか本気なのかまったく読めない。
 男がおおいに水を吸ったリファの服をぎゅっと絞る。周りでたくさんの波紋が起こり、コマたちがきゃんきゃんと楽しそうに駆け回った。
 男はその狼たちをしばらく眺めた後、リファを見下ろした。
「助けてもらったという認識で間違いないか?」
 その通りなのだが、実際に助けに入ったのはハンスたちであるし、リファに至っては彼の目の前で盛大にこけただけだ。バラエティ番組の脚本家だって、こんなお粗末な台本は書かない。
「はあ、まあ」
 自信満々で助けましたとは言えず、リファは歯切れ悪くそう答えた。
「そうか、助かった。ありがとな」
 しかしリファの濡れた金髪をわしっと掴むと、男はにっかと笑って大きくなで回した。扱いが犬に対するそれである。
「さすがにあの人数を相手にするのは骨が折れると考えていたんだ」
 よくしゃべる男である。
 わしわしわしとさんざんなでられ髪の毛は乱れに乱れ、濡れているせいでもとに戻らない。頭のてっぺんだけ雀の巣のようになったリファを、男は軽々と抱き上げた。
「とりあえず風邪をひく前に乾かそうぜ」
 自分が濡れるのもかまわず、リファを逞(たくま)しい腕にのせて川を渡る。ハンスたちはそれにおとなしくついてくるので、リファもおとなしく従った。
 川を渡りきって大きな岩にリファを立たせると、男は背負っていた大きな鞄から分厚い毛布を出してリファを包み込んだ。
「見ないから、とりあえず濡れたもん脱ぎな?」
 まさしく子供に言い聞かせるように優しく言って、男は森へと入っていってしまった。
 リファは毛布に包まれたまま、もぞもぞとハンスを見る。
『敵意はないから安心していい』
 リファの言いたいことに気づいて、安心させるようにそう答えてくれる。こんなに逞しい組長もおるまい。
 リファは小さく、うんとうなずいて、男に言われた通りに濡れたコートとズボン、靴下、ブーツを脱いだ。
 男は両手いっぱいに枯れ葉と枯れ枝を持って戻ってきた。リファの近くの大小の石をどけ、地面を露出させる。そこに集めた枯れ葉と枝を盛って、その中央にくしゃくしゃにした紙を置いてポケットからマッチを取り出した。とはいえ、形はガスライターのようなそれである。ただし、めちゃくちゃ装飾が美しいガスライターといえばいいのか。黒のグリップ部分に金で優美な蔦(つた)模様が描かれている。男がおしゃれガスライターをカチッとすると、勢いよくその先から火花が散った。お誕生日の日に飾るような蝋燭ほどの炎が、おしゃれガスライターの先から飛び出す。男はそれで中央の紙を燃やすと、そっと枯れ葉と枝を重ねた。薄灰色の細い煙がたなびきだし、やがてそれは焚(た)き火になった。
 男はそれの周りに大きな岩を運んでくると、リファが脱いだ服をそれに並べて乾かしだした。ブーツは上下をひっくり返して、土に突き刺した太い枝に筒状の部分をかぶせて引っかけている。
「太陽も出てきたからすぐに乾く。しばらくそれで辛抱しててな」
 にかっと自分が太陽のように笑う男に、リファはこっくりとうなずいた。
 焚き火を恐れて、ハンスたちは少し遠くの風上からリファを見守っている。時たまリファは彼らに手を振って、大丈夫だよ、と伝えてみる。
 それを横目で見ていた男が口を開いた。


「ところで、あの狼たちは君のなんなんだ?」

(……なんだろう)
 なんとなく成り行きで行動を共にしているが、なんと表現すれば正しい関係なのかわからない。リファが迷っている間に、男が続けて口を開いた。
「あれらは人間には決して服従しない気高い銀狼の一族だ。季節ごとに多くある縄張りを巡って土地の秩序を守る守り神のような狼たち――。それを、君のような女の子が従えているなんて、物語でも聞いたことがない。君はいったい何者だ?」
 動物と会話ができるしがない美少女です、と言えたらどれだけ楽だろう。とはいえ、それを言ったところで信じてもらえるとも思わないのだが。
「それとも、気高く賢い狼たちも君のように愛らしい容姿の女の子にはメロメロになっちまうもんかね」
 男はけらけらと笑いだした。そのセリフは、おじさんが言いそうな下ネタと似通ったものを感じる。
「私は、彼らを従えているわけではありません」
 とりあえずそれだけは伝えておこうと、リファは口を開いた。
「彼らは私を助けてくれているだけで、私との関係は、彼らの善意で成り立っています」
 事実である。ハンスたちの仁義によって、リファは彼らと共に生活することを許されているのだ。
「それは、彼らが君を好きだからって意味じゃないのか?」
 好きなのか?
 リファが思わずハンスたちに視線をやると、コマがぴょんっと立ち上がって首をぶんぶんをと縦に振った。勢いあまって、青空に向かってアオーンと吠える。それにつられて、ほかの若い狼たちもオオーンと遠吠えを始めてしまった。
 まるで大合唱で、『みーんなリファが大好きー!』と叫ばれているようである。

「あれは返事か?」
 男は目を丸くして、その後けらけらと笑いだした。よく笑う男である。
 男は手際よく焚き火で湯を沸かすと、欠けたカップに温かいココアを作ってくれた。街を出てから、久しぶりに嗅ぐ果物以外の甘い香りである。
「君の名前は?」
「リファでしゅ」
「そうか、リファでしゅか」
(こいつ……)
 リファはひくりとその愛らしい表情をゆがめた。
 完全におちょくっているのはよくわかったが、男はあくまで大真面目な顔でそう応えるのでリファは握った拳(こぶし)にぐぐぐっと力を込めてげんこつするのを耐えた。
 男は〝ジニアス〟と名乗った。自国を飛び出してしがない冒険者をしているのだという。
 しがない冒険者にしては、その容姿はSS級の美しさである。
「君のほうだって俺に負けてないと思うが?」
 ジニアスの容姿に言及すると、そう言い返されてしまった。
「美しい容姿がなにもかもにうまく作用するとは限らないだろ?」
 ジニアスはその美しい顔で、妖しく意味ありげに笑ってみせた。
 言外に、「君もそうだろ?」と言われているようで、リファは黙ってココアに口をつけて明言を避けた。

 太陽が傾いてそろそろ昼時だろう時間には、リファの服は完全に乾いていた。もともと速乾性に優れたコートとブーツだったので、この冬の冷たい空気でも乾いたのだろう。
 リファが毛布の中でもぞもぞと着替えている間、ジニアスは器用に作った釣り竿(ざお)を使って目の前の川で魚を釣りを始めた。ところがそれを見たハンスたちが豪快な魚狩りに興じ始めたので、泳いでいた魚はあっという間に散ってしまい、ジニアスの収穫は三匹である。
 彼は着替え終わったリファのもとに戻ると、手際よく魚のはらわたを取る。それを削った枝に突き刺し、焚き火の周りにくべた。すぐに食欲をそそるいい匂いが漂ってきて、コマたちがふんふんと近づいてきた。
 リファは鞄から取り出した〝塩〟を取り出して、焼き目がつく前の魚にパラパラと振りかける。海の魚なら必要ないかもしれないが、川魚ならきっと塩味が必要だろう。
「塩を持ち歩いているのか?」
「塩さえあれば、火を通した身はおいしくなるから」
 ジニアスの驚いたような顔に、リファはふいっと顔を背けた。幼い少女が狼を連れてひとりで旅をしていること自体珍しいことなのだろう。その上、しっかり塩を準備しているあたり、リファは自分が食いしん坊になったような気分で恥ずかしくなる。
 リファの羞恥をよそに、ジニアスは「食は大事だよな」と言って納得したようだった。
 ほどよく焼けた川魚を手渡され、リファはそれにふうふうと息を吹きかけてから口をつけた。直火で焼かれてカリカリになった魚の皮の香ばしさが、口の中に音を立てて広がっていく。
「うっっっま」
 心の底から声が出た。
 突き破った皮の向こう側にぎっしりと詰まったふわふわの白身から湯気が上がっている。それをはふはふと言いながら口の中で転がして、振った塩気が最高の塩(あん)梅(ばい)だったことを実感する――極上の食べ物である。
 頭上では傾いた太陽と真っ白の雲が、青空を引き裂いてゆっくりと流れていく。
 リファたちの食事を、ハンスたちは邪魔することなく見守っている。コマなどはそわそわと焼き魚に興味を引かれているようだったが、クレアにたしなめられておとなしく川辺で日なたぼっこに興じている。
 旅に出てから初めての、木の実や果物以外の、調理された食事である。
 噛んで飲み込むたびに、自分の血肉になっていくのがわかるほどおいしかった。
「塩があるとやっぱうまいな」
 ジニアスははぐはぐと夢中で魚に食らいついているリファをよそに、パクパクっと数口で魚を食べ終えていた。とはいえ、骨にこびりついた身も上手に剥(は)がして食べ、きれいに骨だけを残してご馳走様している。リファの頭をなでた手は粗野だったが、食べ方は存外きれいだった。これまた意匠の凝った蓋つきのデカンタから水をあおり、減った分を川からいただいている。
 ジニアスが川から戻ってきてもリファはまだ魚を食べている。

 手持ち無沙汰になったジニアスは、そんなリファを相手に自国の話を始めた。
 彼の国は砂漠の真ん中の大規模なオアシスにあるらしい。美しい宝石と、灼熱の赤い砂、その国にだけ豊富な水が湧く神に愛された国なのだという。
「俺の国では様々な調味料の流通が盛んなんだ。貿易拠点として繁栄していて、他国の珍しい調味料がたくさん入ってくる」
 なんて魅力的な国なんだ――リファは思わず、ジニアスの話を前のめり気味で聞いた。とはいえ、魚を食べる手は止めない。
「俺の国の人間じゃどう使っていいかわからないような調味料も入ってくる。コージという白い調味料なんて、白カビみたいな見た目をしているんだ。それを持ち込んだ商人によればそのコージは肉をうまくしてくれるらし――」

 ジニアスは話の途中で思わず口を閉ざした。
 目の前で夢中で話を聞いていたリファが、かなりの近距離で自分の顔を覗き込んでいたからだ。見ると、食べかけの魚は枝ごと砂に突き刺してある。
 幼いながらも隙なく整った美しい顔が、すぐ近くでジニアスを見つめている。世界の秘宝をそのまま瞳にしたような青い瞳が、キラキラと輝いていた。
「コージ? 塩こうじ?」
 鬼気迫るリファの言葉に、ジニアスは戸惑いながらもうなずいた。遠巻きに見ていたハンスたちが、なんだなんだとリファたちの様子をうかがっている。
 それを流し見しながら、ジニアスはリファを両手で制して口を開いた。
「あ、ああ。そういえばほのかに塩味がするといっていたな。商人は、珍味中の珍味だと言っていたが――」
「塩こうじなんてめちゃくちゃにおいしい調味料じゃないれすか。味噌があるから存在するかもしれないと思ってたけど、ほんとに存在していたとは! りほのときは塩こうじ自体高くてあんまり買えなかったけど、ちょっと漬けてもみもみするだけで肉はやわらかくなるし、ほのかな塩味と甘味が口の中に広がったときの幸福感! やちゃちいうまみがたまらない最高のやつでしよ! あと冷めてもおいしいからお弁当にも最適なんでしゅ!」
 ジニアスの胸ぐらをぐいっと掴んで、リファは熱弁した。熱弁しすぎて何度か 噛んだが、今は気にならない。
 リファの勢いに圧倒されながら、ジニアスは「そ、そうか」となんとか答えている。
「それどこで手に入りゅ?」
 秘宝のような瞳が、真剣な色を帯びてジニアスをとらえた。
 この世の者とは思えぬほど美しい美少女が、これまた国のひとつやふたつ滅ぼしてしまってもおかしくないほどに美しい男の胸ぐらを掴んで詰め寄っている――この場には幸い動物たちしかいないが、そばから見ればなかなかに衝撃的な絵面 である。
 リファの、家に置いてきた調味料への未練が、こんなところで発露されてしまったがゆえの暴挙であった。
 ジニアスはどうどうとリファをなだめながら、右を見て左を見て、やがて上を眺めてから彼女を見据えた。
 人がよくする、考えてたくらんで実行に移すときの仕草である。
 自分の胸ぐらを掴むリファの手を丁寧に剥がしながら、ジニアスは冷静に口を開いた。

「今、俺の鞄の中に入ってる」
「〇×△■◇!?」
 リファの口から言語化不可能な声が飛び出た。
「ほしいのか?」
「ほしいでしゅ。私が思っているものと相違ないか確認したいし、相違ないなら料理に使いたい。ハンスたちに鶏肉を調達してもらって、あなたにさばいてもらった肉にコージで味付けしたものを焼く。そして純粋にぱくつきたいです!」
 八割ほどが他力本願であるが、リファの目は真剣だった。
「ぱく?」
「ぱくぱく食べたいってことでしゅ」
 リファの目はどこまでも真剣である。
「そんなにほしいのか?」
「ほしいでしゅ」
 言いながら、食べかけている魚の存在を思い出したのか、再び魚にかぶりつき始めた。ジニアスはここで耐えられず噴き出す。
「二度と拝めないような絶世の美少女かと思えば、中身はただの食いしん坊だな」
 げらげらと豪快な笑い声に自尊心をぶたれながら、リファは魚を食べ続けた。食べられるだけでも感謝なのに、最高においしい命の糧である。食いしん坊とでも意地汚いとでも言ってくれ。
「そんなに欲しいなら条件がある」
 ジニアスがふと、真剣な声を出した。
 タダならぬ空気を感じ取って、リファは白身の食べかすをつけた口で思わずハンスを呼ぶ。
 ハンスはふわっと 軽やかに立ち上がると、リファとジニアスの間に立った。
「……どうしてこの狼を呼んだ?」
 ハンスのオッドアイに睨(にら)まれながら、ジニアスは両手を上げて降参のポーズをとった。本気で戸惑っているようである。
「体を差し出せと言われるかなと思って」
 リファはハンスのしっぽにつかまりながら、ジニアスをじとっと睨んでいる。
「俺の国じゃ、お前くらいの年齢の女を恋愛対象にするのはご法度だ。もちろん性の対象にするのもな。そもそも俺は、凹凸のない子供の体に興味はない」
 たしかに、このジニアスという男はボンキュッボンの女性が好きそうな顔をしている――リファはそんなことを真剣に考えながら、警戒を解かずに彼に問いかけた。
 そんなことを言って、本音はどうかわからない。リファが今履いているブーツは、まだ幼い彼女が男から伴侶に欲しいと請われた証しなのだから。
「なら、条件って?」
 ジニアスはその炎のような瞳をゆらりと揺らすと、弾んだ声で言った。

「俺と共に、呪いの国へ旅をしよう」