* * *






 ――ゴツッ。


「あだっ」
 リファは額に受けた衝撃にぱちっと目を覚ました。
 じりじりと痛む額に、しばらく動けないまま現状を把握しようとする。
 空気が冷たい。土のにおいがする。
「やっとお目覚めか。動かしてもかかえても動かないものだから、死んでしまったのかと思ったぞ」
 聞きなれない声がする。先ほどの品のなさそうな男とは違う、落ち着いた声と口調だ。
 上体を起こして見渡すと、見慣れたオオガミの祭壇だった。リファは祭壇の石碑の上に乱暴に落とされたらしい。冬の冷気で冷えきった石碑が、体から熱を奪っていく。
(よかった、こっちの私が目覚めたら、強制的に動物の体からもとに戻るんだ)
 もし戻らなかったら一大事である。
 リファは自分の手を見つめて、ほっと息を吐いた。
「小さき手だな」
 そんなことを言ってくる男を見上げると、そこにいたのはなんとアルダンだった。
「おうひゃま!?」
 驚きのあまり、思わず声がひっくり返る。
「なんだ、私の顔を認識していたか」
 アルダンは妙に機嫌のよい様子で、リファの傍らに座り込んだ。
 豪奢な服が土に汚れることもいとわず、そのあたりに咲いた花を摘む。
 リファが見上げる横顔は、さすがアルバの弟である。非の打ちどころのない端整なつくりで、アルバより疲れた男の哀愁というか疲れた男の色気があるというか。
 りほだったときの大好物は、少しくたびれたスーツの上司である。
 リファからふらちな目線を向けられているとも知らず、アルダンは皺の刻まれた口の端をわずかにゆがめた。
「見事な魔法だな。あなたはまさに我らアルフレートの救世主というわけだ」
 大ぶりな白い花の香りを嗅ぎながら、アルダンはゆっくりと立ち上がった。
 ぐしゃり。投げ捨てたその花を踏みつけて。
「ピーッ」
 見ると、少し離れたところにクロマユがいる。
 鎖でぐるぐる巻きにされ、柱にくくりつけられていた。バタバタと暴れて泣いているが、頑丈そうな鎖は簡単にはほどけそうにない。
 そのクロマユの周囲に、黒づくめの男たちがいた。手にはよく研がれた剣と弓矢が握られている。
「クロマユ……」
 辺りはいつもより暗かった。松明がすべて消されていて、今は星の明かりしかない。
 今夜は新月だ。
「聞いたことがあるかな? 月のない夜に、オオガミ様の力は最も強まるのだ。月はオオガミ様を支配する星。その星が隠れている間、オオガミ様の力はいつもより高ぶるのだ」
 そんな話、初めて聞いた。アルバなら知っていただろうか。
「そんな夜に、オオガミ様に真のいけにえを与えたらどうなるとおもう?」
 アルダンはゆがんだ笑みを浮かべた。
 リファは思った。この人も勘違い野郎のひとりであると――。
「オオガミ様は人間を食べない」
 リファは気丈に振る舞った。
 怖くて怖くて仕方ないが、今のリファには〝緑の指〟も、魔法の盾だってある。
「食べるさ」
「食べないよ」
「オオガミ様が人を食べるか食べないかなど、些細なこと」
 アルダンの濁った銀色の瞳が、リファをぎろりととらえた。
「うぐっ!?」
 アルダンの節くれだった手が、リファの華奢な首を絞める。
「オオガミ様がお前の血でけがれることで、邪神となってくれたらそれでいい」
 リファは目を見開いた。
(え!? 私の血ってそんなに汚いの!?)
 リファがお門違いなことにショックを受けていると、アルダンのもう一方の手に光るものが握られた。
「邪神となったオオガミ様が、この世界を滅ぼしてくれる」
 消え入るような声だった。呪詛ではない。まるで、願いのように。
「おうしゃ、」
 思わず、リファはアルダンの顔に手を伸ばした。ひどい顔だ。そんなつらそうな顔を、どうしてこの人はしているのだろう。今まさに、リファに危害を加えようとしているのに。
 アルダンの手に握られたナイフが振り下ろされる。
 リファの白い額を狙って――。
『リファ!』
 ナイフはリファの額を貫くことなく、なにかにタックルされたアルダンが遠くに吹き飛ばされた。
 リファの視界を、暗闇でも輝く美しい銀色が埋めた。
「はっ、ハンスぅ!」
 リファはその巨体にがばっと抱きつくと、震える腕で泣いた。
『リファ、大丈夫ー!?』
 見れば、コマもライムギも、ドミニクもいる。
「みんなあ……」
 リファは鼻水まで垂らして、コマたちを見つめた。
『遠吠えの声がおかしかったので、なにかあったのかと』
 ハンスの低く落ち着いた声が頭上に降ってくる。大きな巨体を折り曲げて、ハンスはリファの顔に額をすり寄せた。
 あのとき、勇気をもらっただけでなく、リファの遠吠えから異変を察知して助けに来てくれるなんて――ハンスはヒーローだ。間違いなく。
「ありがとうぅ」
 リファはその整った顔を抱きしめて、またも号泣した。
『オオガミ様の加護があるから、ほんとはとっても怖かったんだけど、なんか意外とたいしたことないね!』
 コマがにこにこと罰当たりなことを言っている。
『ボス、変なにおいがする』
 ライムギが鼻をひくひくさせて言う。ライムギの視線の先には、アルダンが立っていた。吹き飛ばされ、よろよろと立ち上がっている。
 その手には紙煙草が握られ、ばね式のライターで火をつけているところだった。
「……まったく、狼の姿をしたものはこうも、厄介なものか」
 紙煙草をのんきに吹かし、アルダンは言った。
「オオガミ様への供物として狼を捕える時、我々がどういった狩猟の方法をとっていたか知っているかね」
 うなり声を上げるハンスたちを前に、アルダンは余裕すらある。クロマユのほうを盗み見ると、黒ずくめの男たちも焦った様子はない。こんなに大きくて強い銀狼の群れが現れたというのに。
 リファは嫌な予感がして、ハンスの体にしがみついた。
『――うえっ』
 最初に反応したのはライムギだった。大きな体を苦しそうに震わせて、嘔吐している。
『ライムギ!』
 ドミニクが駆け寄ろうとするが、そのドミニクの逞しい脚から力が抜けた。脱力した巨体は地面に倒れ込み、ライムギと同じように嘔吐している。
「毒の草があるのだよ。狼は鼻がいいから、よく効く」
 アルダンの穏やかとも取れる声に、リファは血の気が引いた。
(あの紙煙草――)
 次にはコマが倒れて嘔吐した。
「彼らが住まう洞や森にその毒の草を焚きしめて、狼たちを弱らせてオオガミ様に与えていたそうだ。もうずっと、はるか昔の話だがね」
 アルダンがふうと息を吐いた。辺りには、ひどいにおいが立ち込めている。
 クロマユも、ぶしゅっとくしゃみをしている。
『リファ、逃げなさい』
 ハンスももう体が震えている。倒れ込むのを、必死でこらえていた。
『リファ──』
「いや!」
 言い聞かせるように話そうとするハンスの言葉を、リファは泣きながら遮った。
(盾、盾を出さなきゃ。まって、あの盾って空気を通すんだっけ。だめだ、今さら出してもハンスたちが吸い込んだ毒は抜けない)
 考えても考えてもいい案が浮かばない。
 震える脚でハンスの前に立ち塞がろうとしたリファを、ハンス自身が止めた。
『リファ。その小さな体で私たちを守ろうとするのはよせ』
「いやだ!」
 子供のように泣きじゃくるリファに、ハンスは苦笑したようだった。
『今は逃げなさい。私たちは、お前やあの男が思っているよりもずっと強い』
 そう言われて、リファはぐっと言葉をのみ込んだ。
(だって震えてる、苦しそうだ、助けてもらってばかりで、どうして助けることができないの――)
『私が隙をつくる。その間に逃げなさい』
 リファの涙を、ハンスがそっと舐め取った。
「美しいな」
 アルダンが二本目の紙煙草に火をつけながら言う。
「人と獣の間に、そのような絆が生まれるとは」
 心底から感心している声である。
 そんなアルダンの前に、ハンスが力を振り絞って立ち塞がった。
「美しい瞳だな。お前のような孤高の狼を従えることができたその娘は、なんと幸福で無敵だろうか――」
 まるで憧れでも語るかのような声だった。
『リファは我々を従えているわけではない』
 アルダンに言葉が通じないとわかっていながらも、ハンスは静かに怒っていた。
『私たちの家族を愚弄するな!』
 衝撃波でも起きそうな咆哮がハンスから放たれた。
 隣にいたリファの鼓膜が震え、一瞬音が聞こえなくなる――今だ!
 咆哮に怯んだアルダンの隙を突いて、リファは泣きながら逃げた。
 踵を返して背後を振り向いた瞬間、この場にはいないはずの人物を見つけて固まる。
「「助けに来たぞ、我らが兄妹よ」」
 ソーマとトーマだった。
 ふたりは鈍器で男たちを殴った後、クロマユの鎖を解いてくれたようである。
「父上」
「食らってください」
「「ミラクルオオガミスーパーキック!」」
 鎖をほどかれてほっと息を吐いていたクロマユが、ふたりの渾身のダブルキックで吹き飛んできた――アルダン目がけて。
 クロマユボールは、えげつない勢いでアルダンの顔面に激突した。リファですら「ひっ」と悲鳴を上げてしまうほど痛そうである。
 手に持っていた紙煙草とナイフが、勢いよく宙へと飛んで行った。
「こ、の……」
 アルダンがふらつきながら顔面を押さえている。
 クロマユは悲鳴を上げながら、どこかへ弾き飛ばさてしまった。
「愚息たちめ……っ」
 アルダンはそう言ったが、そこに憎らしさは感じなかった。
「「あ!」」
 その双子の声が、きれいにハモる。
「リファ、危ない!」
「え?」
 トーマとソーマの声に、リファはふたりを振り向いたときだった。
 ――ヒュルルル……ストッ。
 弾き飛ばされたナイフが落ちてきて、狙いすましたかのようにリファの腕をかすめた。
「いっ」
 よく研がれたナイフは、リファの皮膚を切り裂き数滴の血をこぼした。
 それは祭壇の石碑に飛び散り、まるで雪の上に落ちた椿のようである。
 どこからともなく、クロマユの「ピーッ」という悲鳴が響き渡った。
「ああ……、それでいい」
 アルダンの消え入るような声が、リファの耳に届いた。
 ――ズズッ。
 地面が揺れた。
 立っていられないほどの揺れが、地中から突き上げるようにリファを襲う。
「地震だ!」
 リファが叫ぶと、双子が柱にしがみついて「じしんってなんだ!?」と叫んでいる。
 立っていられないほどの揺れに、ハンスもとうとう地面に伏した。
「ハンス!」
 腕から血を滴らせたまま、リファはハンスに寄り添った。
『リファ、ここはまずい』
「え?」
 息も絶え絶えのハンスの言葉に、リファが首をかしげた時。

「――リファ!」
「――リファさん!」
 遅れて登場したジニアスとアルバである。ふたりの姿を認めて、リファは脱力した。
「遅いよぉ」
「悪い、いろいろと時間がかかってな」
 リファの泣き言に、ジニアスが駆け寄ってきて笑った。
 そのあけすけな笑顔のなんと心強いことか。
 味方が勢ぞろいした。敵はアルダンひとりである。
「アルダン……」
 アルバは呆然と、大きく揺れる中、負傷している自分の弟を見つめた。
「遅かったな」
 アルダンは顔面を腫らしながら、吐き捨てるように言った。
「オオガミ様は、邪神として復活なさる」
 アルダンの言葉に呼応するように、祭壇がひび割れ、そこからまばゆいばかりの光が漏れだした。クロマユがどこからか飛んできて、その光の中に吸い込まれていく。
「クロマユ!」
 クロマユを助けようとリファが駆けだすのを、ジニアスがかろうじて止めた。
「馬鹿! むやみに飛び込むな!」
「で、でも、クロマユが……っ」
 うろたえるリファに、アルバが大丈夫ですよ、と静かに声をかけた。
「クロマユはオオガミ様の化身――己の中に戻っただけでしょう」
 それはつまり。
「オオガミは復活するのか?」
 ジニアスの疑問に、アルバは緊張した面持ちでうなずいた。
 光の洪水が辺りを満たした。
 近くにいるジニアスとアルバ、ハンス以外が見えなくなったかと思うと、その光はさらに輝きを増して、ひとつの形をつくっていった。

 そして姿を現したのは――オオガミは、純白の姿をした美しく巨大な狼だった。
 まるで光の粒子のようなもふもふが、リファの目をくらくらさせる。この城が黒いのは、彼のこの姿を際立たせるためのものだとこの時気づく。
 オオガミは永い眠りから覚めた体をほぐすように背伸びをすると、自分の足もとに立ち尽くしているアルダンとリファ、ジニアスたちを見据えた。
 その眼差しは無感情のようで、しかし慈愛の波のようで、リファは身じろぎもできずその瞳を見つめた。様々な色が混じり合うその瞳は、見ていると吸い込まれていきそうである。
 巨大な城と大差ないほどの大きさでありながら、その姿は優雅だった。
 これだけ大きいと、国の外で待機しているオリエイエの人々にもこの姿は見えているだろう。
「オオガミ様……」
 アルバはすっと頭を垂れた。神官として、この場で仕える神にひれ伏したのだ。
「それはお前が望むオオガミではない。その方は今から、再び世界に呪いをかける邪神となる」
 アルダンの言葉に次いで、トーマとソーマの悲鳴が聞こえた。
 見れば、気絶していたはずの黒づくめの男たちがふたりを縛り上げ、弓矢を構えている。あろうことか、オオガミに向かって。
 アルダンに雇われているのは、オオガミを祀るアルフレートは滅ぶべきという他国の過激派の人間である。以前、この祭壇で参拝した国民を刺殺した人間と同じ派閥の者たちだ。
 黒づくめの男たちがわっと増えた。先ほどまで三人しかいなかったというのに、どこに隠れていたのか、今や十数人という数である。
 その人数が、弓矢を構えてリファたちの前に立ち塞がった。
 好転したと思った形勢が一気に逆転されてしまった。
「オオガミ様さえ復活してしまえばこちらものだ。オリエイエの軍隊はすぐに行動に移すだろう。戦が始まり、民たちは犠牲になる――そうなれば多くの血が流れ、永く眠りにつきけがれを落としていたオオガミ様も、またけがれた邪神になる!」
 そんなことないはずだ――リファはニカの言葉を思い出していた。
『――オオガミが絶対悪ではないのは承知の上だが、その膨大な力が伝承通りならば、この世界にはすぎた力ではないかと。我々にとっては未知の存在だ。たとえばオオガミが、このアルフレートの人間たちは加護対象と位置づけ、その他の人間はその対象からはずれていたら? 〝神〟という超越した存在に、常識や正義、悪や愛などは、通用しないと我々は思っている』
 ニカは、むやみに攻撃はしないと言っていた。あの人柄が、いたずらに罪のない国民たちを傷つけるものではないとわかっている。
(けれど)
 もし、この巨大なオオガミの出現でパニックが起きていたら?
 アルフレートの民にも、オリエイエの軍隊でも。
 こんなに神々しく美しい神の姿に、畏怖を覚えない者がいないわけがない――。
(そうなったら、混乱が戦を引き起こす)
 だてに七度の人生は生きていない。パニックになった人々が普段からは考えられないような行動に出ることを、リファはよく知っている。
 リファは咄嗟に鳥の目を借りた。
 見上げると、夜だというのに羽ばたく鳥が見える。オオガミ復活の際の地揺れに反応して、夜目が効かなくても逃げ惑っているところだろう。
 そのなかの一羽の鳥に合わせて、リファの視界も高い空へと移動する――。
 オオガミの発する白い光は、国の外の荒野すら明るく照らし出してた。やはり、オリエイエ軍がオオガミに気づかないわけがない。
 臨戦態勢をとる彼らの姿を、鳥の目を介してリファは確認してしまった。
 大きな砲台がある。いつの間につくられたのか、大きな物見櫓(やぐら)が何台も。その台から、たくさんの軍人が弓矢を構えてアルフレートを狙っている――。
「だめ!」
 リファは咄嗟に自分の体に戻ると、巨大な「盾」をつくり出した。
 蔦柄の美しい魔方陣が、アルフレートを丸まる包み込めるほどの巨大な盾となって空中に現われる。
 血が逆流するような感覚だ。
 頭の血管が切れそうである。
 くらくらする体に耐えながら、リファは唇を噛んだ。
 今度こそは誰かを傷つけるのではなく、助けたい――。
〝緑の指〟で出した植物を、心の底から喜んでくれた城の者たち、それを受け継いで守ると約束してくれた双子たち、街の優しい人たち、アルバにジニアス、そして、助けに来てくれたハンスたち、おまけで、寂しい顔をした王様も。
(ねえクロマユ、そのための力だもんね)
 鼻血が出た。恥ずかしいなと思いながら、リファは穏やかに笑う。
(私、皆を守れたら、ここで死んでもいいや)
 寿命じゃなくていい。ここで、〝リファ〟に優しくしてくれた人たちを守って死ねるなら、こんなかっこいいことはない。

 リファの体が、温かい腕に支えられる。
「王よ、おやめください! このような年端もゆかぬ子供をいけにえに、我らが神を地に落とすような真似が許されるわけがない!」
 いつの間に駆けつけたのか、アンガッサが男たちの弓矢からかばうようにリファを抱きしめて立っていた。その前には、ジニアスとアルバが盾になるように立ちはだかっている。
「射れ」
 アルダンから、容赦のない声が放たれた。
 男たちから弓矢が放たれたのを見て、リファはアンガッサや無防備なジニアスたちにも小さな盾をつくった。完全に虚容量を超えている。とうとう吐血までしたリファに向けて、オオガミがその大きな体をぐっと折った。
「リファ!」
 ジニアスたちの焦った声とは裏腹に、オオガミはリファをつぶさないようにそっと近づくと、その額にやわらかく口づけを落とした。
 まるで羽根に触れられたようなやわらかさで、それはリファの体の中にぬくもりを落としていく――その瞬間、リファの首もとの痣がカッと熱くなった。
 リファの中に、オオガミの記憶が流れ込んでくる。輪廻の鎖にがんじがらめにされてぼろぼろになった前世のリファの姿が見える。はるか昔、オオガミが人を糧にすると勘違いした人間たちによって、捧げられたリファ。
 オオガミはその慈愛で、過去六回人生を巡り、そのたびに不本意な死を遂げたリファの魂を癒やし、生きなおさせることで、輪廻の鎖を断ち切ってくれたのだ――。
 リファの美しい瞳から、ぼろぼろと涙があふれてくる。
「わた、私もう、繰り返さなくていいの」
 光の中で泣きじゃくりながらそう問うリファに、クロマユが「ピイ」とうれしそうに鳴いて答えてくれたような気がした。

「リファ」
 鼻血を出しながら〝盾〟を維持し続けるリファを、いつの間にかジニアスが抱き留めていた。アンガッサはアルバのほうへと駆け寄っている。
「もう大丈夫だ」
 見れば、ニカやオリエイエの男たちの姿があった。
 そのニカたちが、ジニアスにかしずいている。
「我が国オリエイエの第四王子であらせられるジニアス様の命により、我々はすでに警戒態勢をといております」
 リファはくらくらする頭で、「え」と小さな声を上げた。アルバとアンガッサも、驚いてジニアスを見ている。
(そんなサプライズ、今いる?)
 けれど、ジニアスが何様でもいい。
 そのあっけらかんとした笑顔を見てほっとしたリファは、巨大な〝盾〟の魔法を解いた。一気に体が弛緩して、立っていられなくなる。
 オオガミはふんとその美しい鼻先を鳴らすと、すいっと優美に動かした。弓矢を構えていた男たちを物ともせず、彼らをはるかかなたまで吹き飛ばしたのだ。
 そしてこの場には、アルダンだけが残った。
 薄汚れた長衣は王が召すものとはほど遠い。けれどなぜか、彼からは王としてのプライドのようなものが感じ取れる。
「アルダン、なぜ……」
 アルバが、消え入りそうな声で問うた。
 けれどアルダンは答えず、ただ黙ってオオガミを見つめている。
 そんなアルダンに、オオガミはそっと小さな口づけを落とした。
 その瞬間、アルダンがひと筋の涙を流したかと思うと、オオガミはばくりと彼を飲み込んだ。
「!?」
 全員が固まるなかで、アルバだけが動いた。
「アルダン!」
 先ほどまで頭を垂れていた自らの神にしがみつき、悲鳴のような声で訴えている。
「なぜですか、オオガミ様! アルダンはあなたのため、この国のために誰よりも尽力してきました……! あの子は、私の大切なたったひとりの弟なのです。どうか、どうか……連れていくなら、私を連れていってください!」
 アルバから涙が流れている。
 トーマもソーマも、寄り添うように涙を流してアルバとオオガミを見守っていた。
 オオガミはそっと、アルバの額にも口づけを落とす。
『――この子は連れていこう。私と共に眠り、この子の傷ついた魂を癒やさなければ』
 そしてのんきに欠伸(あくび)をした。
 無数の光があふれて、祭壇の石碑へと吸い込まれてその姿を消した。
 オオガミは、また長い長い眠りについたのである、アルダンを連れて――。
 見ると、空が白み始めていた。
 脱力して地面に膝をついているアルバに、誰も言葉をかけることはできない。
 やがて彼の背中を、すがすがしい朝日が照らした。

 そうして、後に残ったのはアルダン以外の人間たちと、なんとクロマユだった。
「最大の寵愛を受けたな」
 ジニアスがリファの額をこずいて言う。
 リファの額には、オオガミの温かくも冷たい体温が残っていた。
 あの口づけのとき、見せられたもの――。
(もう繰り返さなくていいんだ……)
 泣きじゃくるリファをジニアスは抱きしめて、どさくさに紛れてそっとおでこにキスをした。それに気づいたクロマユが、ジニアスの頭をかじる。
『このマセガキめ』
 いつの間にかドミニクが起き上がって、ジニアスの脚をがぶっと甘噛みした。
「いってえ」
 ジニアスが飛び跳ねてリファから離れたので、リファは支えを失って倒れそうになる――のを、ハンスがすいっと体を使って支えてくれた。
「ハンス、具合は……」
『オオガミの力だろうか。もうなんともないよ』
 優しく穏やかなハンスの声に、リファは心底から安心した。見れば、コマもライムギも元気そうである。お互いを労うように、毛づくろいし合っている。
 その様子があまりにも平和で、リファはまた泣いた。
「ピイ」
 クロマユがふよふよと飛んできて、リファの涙を自分のもふもふで吸収した。
「クロマユ」
 リファはクロマユを抱きしめた。
 オオガミに見せてもらったなかに、懐かしい姿があったのだ。
「お前、クロだったんだね」
 リファが一番最初の前世でかわいがっていた黒い子犬である。リファと同様、魂を繰り返していたクロを、オオガミが取り入れて魂が同化したのだ。そしてクロマユという化身となって、リファのそばにいてくれたのである。
 まばゆい純白の毛をしたオオガミの化身だというのに、クロマユが黒い毛玉なのにはそんな理由があったのだ。
 リファの言葉に、クロマユはわざと甘えるようにあんと鳴いてみせた。