あのひとだって。
ピアノをやめたのは、アイドルになったからなんだって。
「俺が小さい頃に聴いたピアニストが弾いてて好きになった。有栖川燈さん。…アリスのお母さんだよね」
「うん。…お母さんの十八番なの」
「でも大事な曲になったのはべつの理由。最後のピアノの発表会で、俺のピアノの音をきれいだって言ってくれた子がいて。そのときに弾いてた曲がこれ」
「…っ、単純、すぎ、でしょ」
わたしだって、気づいてる?
「じゃあ、最後に弾いたのは月の光だった?」
「いや。リストの愛の夢」
それだけでじゅうぶんだと思ってしまったわたしは、どこまでも自分のことしか考えることのできない人間なんだ。
「……ふみと。わたし、彼氏できたから」
じゅうぶんだと思っているのに。
穂くんのこと、ちゃんと、良いなと思っているのに。
「ははっ。なんつー顔で報告してくんの。俺はもう前に振られてんだから…ツキコが気にすることないよ」
ピアノに撫でていた指先が、わたしの頰に触れる。
「大切にしてもらえよ」
あのときと同じ体温。
ピアニストでも、芸能人でも、高校生でも、久野ふみとは何も変わらない。
わたしだけが気にしている。
「それでツキコも、その人を大切にするんだ。そうすれば絶対に幸せになれる」
だけど本当に大切にしたいのは、────。



