ピアノをきらいで最後にするわけじゃない。きっと理由があることはわかった。だって淋しそうな顔をしたから。
音色もそう。だからくもり空のひとつ星のようだったんだ。
だけど。
「そんなにきれいな音でピアノを弾けるのに…」
ピアノを第一にした生活を送るわたしにとって、じょうずにピアノを弾ける人がなぜそれをやめてしまうのか、理由があったとしても、理解ができなかった。
「きれいだったかな。最近は名残惜しい気持ちが音に出ちゃって、だめだなあと思ってたんだけど」
「そんなこと、ないです。淋しそうな音だとは思ったけれど、こころのなかを表せられるのは、いままでお兄さんがピアノをすごく大事に弾いていた、あかしだと思います。だから、だめなんてこと、ぜったいにないです」
だから、やめないでほしい。
また聴きたい。そんな音だった。
「ありがとう。…うれしい」
そっと頬を撫でられる。
お母さんと同じ行為なのに、いやな気持ちはしなかった。むしろ鍵盤によってひんやり熱を失った手のひらが、心地よかった。
「もしよかったら聴いてってよ。あと少しで出番だから」
彼は舞台で『月の光』ではなく、リストの『愛の夢 第三番』を披露した。ノクターンであるそれを彼は原曲よりも明るい雰囲気で弾いた。
さっきの淋しさや迷いは一切感じられない。
もしかしたらそれらはもうなくなったのかもしれない。
前のほうに座って聴いていたけれど、そのピアニストと目が合うことはなかった。
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