穂くんが鍵盤に指を置く。
どちらかといえば、姿勢はよくない。骨張った肩が浮き出て、顔は鍵盤に近い。少し、こわいような、そんな様子は見覚えがあった。
指が、走る。
時計が左回りに動き出したような、そんな狂ったスピードで奏でられた旋律に、道ゆく人は少し騒ぎながら足を止める。
ベートーヴェンの『歓喜の歌』
わたしが最後に弾いた曲だ。シラーに対するベートーヴェンの想いにそむくような…とてもじゃないけど喜びの歌には聴こえない。
痛い。
頭に響く。
心臓が凍りついて、今にも割れそうだ。
こんなのはちがう。
こんなふうに弾きたかったわけじゃない。
「やめて…っ」
気づけば穂くんの腕を掴んでいた。
走るようだった指は思いのほかすぐに停止した。
「……ひどい演奏だったよ、穂くん」
「真似してんだよ、神童が世間を裏切った日の姿を」
ちがう。わたしはただ、もっと自由に弾きたいと思っていた。
だけどいつの間にか、その自由に、価値を付けてしまうようになった。
わたしは神童なんかじゃない。
だけど、神童のわたしじゃないと、意味がない。
だからがんばっていたのに、それすら咎められて。
あの日、最後の日、
当てつけみたいに、八つ当たりで、鍵盤を叩いた。
わたしにはもうそれに触れる資格がない。
「おれは有栖川の真似が上手いから」
「…ごめんなさい。裏切るつもりじゃなかったの」
「べつにいーよ。あんたの音はあんたのものだ。憧れてなぞっても、結局たどり着けない」
わたしなんかに憧れてくれた、宇佐見穂くん。
隣町のピアノ教室に通っていてよくピアノの発表会で会っていた。
本当は覚えていたよ。わたしの弾きかたと、同じ弾きかたをする男の子。
もうわたしなんかより、ずっときれいな音を弾く。



