世界でいちばん 不本意な「好き」




「は?今佐原寧音っつった?」

「前のほうじゃなくていいよね」


行かない、と言い切ってしまった手前、前に座れるほど肝は据わってない。


後ろから中に入る。

クラシックが持つ高貴な雰囲気と演奏がはじまる前の独特な緊張感。さっきまでいた空間とはまったく違う空気にショーマが横で息を飲んだのがわかった。


ステージに置かれた漆黒のピアノ。

そこに、真っ黒なスレンダーなドレスに身を包んだ寧音が先に歩いていく。


華奢な身体。真っ直ぐに伸びた黒い髪。青白い肌。唯一色を主張した赤いくちびる。

今日の演奏のために演出したものだと曲名を聞いてさらに伝わってくる。


「なんで寧音が……」

「静かにして。はじまるよ」


楽曲はラヴェル :マ・メール・ロワ 第4曲 美女と野獣の対話。

野獣を表した寧音の右隣に、薄黄色の花のようなAラインのドレスを着た寧音のお姉ちゃん・音彩(ねいろ)先生が座った。


楽曲は4分程度の3部形式。冒頭は明るく穏やかなメロディーだけど、徐々に野獣の思いが重なり緊張感がつづく。

ふたりの登場人物の生い立ちや環境をどれだけ伝えられるかが、ラスト、野獣が王子にもどり想いが通じる場面に影響してくる。少しずつ音域を広げていく、決して簡単な曲じゃない。



姉妹の息の合った演奏。


それは、何度も夢にみた光景とよく似ていて、何度も目を反らしたくなった。



どうしてわたしにはできなかったんだろう。

あのステージが遠くて、遠くて。


逃げ出した今も、逃げ出さなかった別の未来があったとしても、あそこにはたどり着けなかった気がする。

それでも目が離せないのは、寧音と音彩先生の繊細なのにちから強い絆を感じるようなピアノが、どうしようもなく好きだからだ。