『…本当だ。…母さんの匂いだ』



覚えている。

柔らかくて優しくて、花のような香りだった。

ほんのちょっと付けてみただけなのに、部屋一体にふわりと広がるから。



『…ありがとう、おやっさん』



母親を知らない絃でもこれならきっと喜んでくれるはずだ。

お前の母さんの香りだよ?なんて、男の自分が言っても複雑だろうけど。



『絃織。…お前は俺を恨まないのか』



部屋を出る寸前。

確かに聞こえたつぶやきを、少年は聞こえないふりをして駆けてゆく。


なにを恨むことがあるというのだろう。

こんなにも温かなものを与えてくれて、大切な宝物を増やしてくれて。


……恨めるわけがないじゃないか。



『絃、』


『なぎっ!』


『ねぇ絃。なにか気づかない?』


『…あ!しゅっしゅ!』



恨まれるのはきっと俺のほうだ。

あんな大罪人の息子の妹として、こうして関わってしまっている絃は。

いずれ自分を恨むだろう。



『そう、シュッシュしたんだ。俺と、お前の母さんの匂いだよ。…ずっと覚えててね』


『うんっ!』



まだ何ひとつ意味を分かっていない中の幼き笑顔が、少年にとって何よりも救われるものだった。