「……遅い……」


 時刻は午後10時過ぎ。それなのに、優はまだ帰って来ない。
 高校生になってからというもの、毎日こんな調子だ。

 学校が終わったらそのまま友人と遊びに行き、夜の9時を過ぎても帰らず、男友達と夜の街をぶらついているらしい(みゆちゃんに聞いた)。


「はぁ……」


 昔はあんなに素直で可愛かったのに……いや、もちろん今でも可愛いんだけどな?

 けれど、もっと純真無垢な子だった。
 パパーパパーって言ってくれていたのに、

 最近は、


「なあ、優……」
「何の用? 虫けら」


 こんなだったり、


「優、何か欲しい物は、」
「金、土地、奴隷」


 こんなだったり、


「洗濯物は一緒に洗うなって言ったでしょ? タコ。ふざけないでよカス。もうこれ着られないから新しい服買うお金ちょうだい、クズ」


 こんなだったりする。そろそろ泣きたい。

 ああ、かなりへこんだとも。地面にめり込むくらいにな。
 そりゃあもちろん、親をクズ呼ばわりするなんざ教育的によろしくないため、


「誰がクズだって? 親に向かってその言い方は何だ? パパって呼んでほしいな。あと、ごめんなクズで。はいお金」


 と言ってみたが、


「はあ? 誰が呼ぶかっての。ちょっと顔がいいからって調子に乗らないでよ、キモ」


 ……まあ、一蹴された。文字通り、蹴飛ばされた。


「俺はどこで教育を間違えたんだろうな……」
「いや、親の背中を見て育つどころか背中の皮を剥いで自分に移植したんじゃないかってレベルでお前に似てきてるじゃん」


 一応、樹久は最初からいたぞ。存在感ないから気付かなかっただろうがな。


「俺に似てるだと……? どこがだ」
「どこって言うかもう、似てないところを挙げる方が難しいわ」
「俺はあんなに清廉天使じゃねぇぞ」
「あ、そこ?」


 樹久から目線を移動させ、壁時計を見やる。……午後10時13分。

 不意に、玄関の方から鍵を回す音がした。


「優だ! オイ、優が帰って来たぞ穀潰し!」
「口癖感覚で俺を罵るのはやめない?」


 瞬時に立ち上がり、玄関へ。そこには案の定、優がいた。

 茶色に染まった長い髪を揺らし、綺麗にアイラインを引いた目で俺を見る。
 優が少し動いただけで、甘い香水の匂いが鼻をかすめた。


「優……何時だと思ってるんだ。あと、帰ってきたら『ただいま』ぐらい言え」
「ウザい」


 グロスで色っぽさを放つ唇が落としたのは、そんな言葉。
 細長い指で髪をくるくるともてあそび、ぷいと顔を背けた。


「優……」
「優ちゃん、おかえりー!」


 けれど、背後から現れた樹久が場違いに明るく話しかければ目線がこちらに戻ってくる。


「また来てたんだ、城田」
「あっ、やっぱり今日も呼び捨てなのね」
「名前を呼んであげるだけでもありがたいと思いなさいよ」
「オイ、どこのどの真也だ、こんな女王様を育て上げたのは」


 こっちを見るんじゃねぇ、虫けら。優は産まれた時から俺のお姫様だ。

 樹久いわく女王様は、樹久にスクールバッグを持つよう押し付けて俺を通り過ぎすたすたと中へ入る。


「優、話はまだ終わってねーぞ」
「アンタの人生はさっさと終わればいいのに」


 ……泣いていいか?誰か胸を貸してくれ……。

 リビングのソファにどかりと座る優。そのそばに鞄を置く樹久。
 それから、泣く俺。


「城田。足が痛い。揉んで」
「仰せのままに!」
「オイ虫けら、誰の許可得て優の足に触ってんだ」


 言うと同時に城田を蹴飛ばせば、優は不機嫌そうに顔をしかめる。

 そして一度俺を睨み付けたあと、


「城田、お風呂に入りたい」
「ウッス! 一緒に入りたいです!」
「まじキモい」


 同じように、樹久を蹴飛ばした。


「優、風呂なら沸いてるぞ」
「……まさか先に入ったの?」
「あ? ああ、そりゃあ、」
「うっわ、最悪。アンタの後になんて入れるわけないじゃん」


 かいしんの いちげき!
 きゅうしょに ちょくげきした!

 しんやは せんとうふのうに なった。


「なぁ、樹久ぅ……優はいつからあんな……あんな不良娘になっちまったんだぁ……」


 お風呂場からは、浴槽のお湯を流す音が聞こえる。

 泣きながら樹久にすがりつくと、虫けらは優しい微笑みを俺に向けて、


「気づいてなかっただろうけど、2年前から反抗期だったぜ……? 優ちゃんは……」


 とかほざきやがった。

 2年前?んなわけねーだろ。
 2年前はまだ、


「優を撮るためにカメラ借りてきたから、明日の体育祭頑張れよ!」
「そういうところホントウザいからこの世に一片のDNAも残さずに私の前から消えて」


 ……って感じで、普通に会話できてたぞ。ちゃんとキャッチボールができていた。

 ところが最近はどうだ?会話のドッジボールだぞ、あれは。


「俺は認めない……」


 そうだ。
 例えある日、優が樹久をつれて来て、


「赤ちゃんできたから、私、城田と結婚するね」
「改めてよろしくな! 真也、じゃなくて……お義父さん!」


 ……こんなのは認めない。絶対に認めない。

 そうだ……絶対に……、


「樹久ゥゥゥ!! てめぇ……ッ!! いつから優とそういう関係だった!? 許さねぇ!! 俺は絶対に認めねぇからな……ッ!?」
「えっ!? いつからって、お前が産まれたばかりの優ちゃんを俺に自慢してきた時からこういう関係だったけど……!?」


 まぶたを持ち上げると、我が家のリビング。

 ラブキュア映画の流れるテレビの前に優と樹久が座っていて、俺の体にはラブキュアのタオルケットがかけられていた。


「ぱぱ、どうしたの……? こわいゆめ、見たの……? だいじょうぶ……?」


 ビー玉のように綺麗な目を真ん丸くさせ俺を心配するのは、7歳の優。

 ……なんだ……夢か……。


「よかった……夢か……よかった……」
「えっ? どうした、真也。何で泣いてんの?」
「うるせぇ黙れ勝手に俺の夢に出演しやがって迷惑料払えや」
「大丈夫そうで安心したわ」


 とてとてと歩み寄った優は、小さな手で俺の頭を撫でる。

 そして、変わらないエンジェルスマイルを浮かべて、


「こわいのこわいの、きっちゃんにーとんでけー! もうだいじょうぶだよ、ぱぱ!」
「優……」


 思わず、その小さな体を抱きしめた。

 これから先、あんな夢が正夢にならないよう教育も改めて頑張ろう。


「大好きだぞ、優」
「ゆうも、ぱぱだいすき!」
「……うん、いい感じに終わりそうだけどごめん、ツッコませてね。ナチュラルに『こわいのこわいの』が俺に飛んできたんだけどさ、なにこれ? 俺も泣いていいかな?」