「──ゼルフォード卿、何があったのだ。話してくれ」

 薄闇の奥、必死に語り掛ける一人の騎士。
 冑すら被っていないのに、それが自分の上官であると気付くのに少しの時間を要した。
 意識を浚う眩暈に耐えながら、ただ首を横に振る。
 何も答えることは出来ない。答えられることがない。
 肩を掴む手を引き剥がし、逃げるように頭を垂れる。

「申し訳ありません。今は、何も……」

 どくりと脈打つ心臓を押さえ、視界の隅から滲みだす黒に怯える。
 早くここから離れなければ。誰もいない場所へ。誰にも見つからない場所へ隠れなければ。
 この呪いは、誰にも告げてはいけない。
 誰に助けを求めることもしてはいけない。
 この命と共に、闇へ葬り去るべきだ。


 ◇◇◇


「おはようエドウィン! よく眠れた?」

 清々しい朝日を浴びて起床したリアは、手早く身なりを整えてエドウィンのいる部屋へ突入した。
 扉を開けた瞬間に思い出したのは、よその家ではちゃんとノックをしろと師匠に言われたこと。
 しかしながら師匠自身がノックどころか足で扉を開けるようなガサツな人間だったので、弟子であるリアにもあまり習慣がついていない。
 今朝は初めて、そのことをひどく後悔した。

「え」
「あ」

 視界に飛び込んできた、否、吸い寄せられるようにリアの瞳が捉えたのは、戸の隙間から射し込む光の中、しどけない姿でこちらを振り返ったエドウィンの姿だった。勿論その顔は唖然としている。
 藍白の髪はゆるく纏められるのみで、ワイシャツはまだ袖に腕を通したところだろう。ちらりと覗いた腹筋の、見事な割れ具合をばっちり確認してしまったリアは、奇声を上げて扉を閉めた。

「あびゃあ!? ごめんなさい見てない見てない、エドウィンのお腹が六つに割れてるなんて知らない!!」
「リア、落ち着いてください、別にそこまで謝らずとも……僕がノックを聞いてなかっただけで」
「いや一回もノックしてないです! 私が悪いです!」
「あれ、そ、そうでしたか」

 長いこと師匠と二人暮らしをしていたリアだが、四十を超えた中年のお着替えタイムなど一度だって気にしたことがない。何なら怠惰な師匠の寝所に飛び込み、大声で起床を促していたぐらいだ。
 だからリアは今とてもびっくりしている。

 ──天使かと思った。

 馬鹿みたいな感想だと自分でも思うが、朝日を反射して煌めく菫色の瞳が、脳裏にこびりついて離れない。高い鼻梁が落とす影や、風に揺られる銀糸も──あと柔和な顔立ちに似合わぬ鍛え抜かれた腹筋も。いや正直に言うと腹筋ばかり頭に浮かんでくる。

「お師匠様には腹筋などなかった……」
「リア、すみません。もう大丈夫ですよ」
「あ、はい」

 必要ないと分かっていながら、リアは一応ノックをする。笑いまじりに「どうぞ」とエドウィンが応じてくれたので、恐る恐る扉を開いたのだった。



「──呪いが出た時期、ですか」
「ええ、まずはエドウィンの呪いについてしっかり把握しとかないとと思って」

 騒がしい朝の挨拶を終えて、リアは昨晩と同じテーブルで朝食をとっていた。焼きたてのパンをもさもさと咀嚼しながら、久々の美味しい食事に思わず至福の表情を浮かべてしまう。
 しかし今は真面目な話をしているのだからと、慌てて口元を引き締める。

「覚えてなかったら良いんだけど、どういうときに呪いが発動するのか、とか……あと周期とか」

 リアは使い古した手帳を取り出し、就寝前に書き留めた質問すべき内容に目を通す。
 エルヴァスティでは呪いがそもそも存在せず、況してや精霊が人間を呪う例など師匠からも教えてもらったことがない。修行中の身ゆえ、その辺りの知識が足りていない可能性は無きにしも非ず。
 その上で挙げるとするならば、精霊を行使して他者を呪うというものだが──これは精霊術をかじっている者なら、あまりにも危険で現実的ではないと理解できる。
 何せ精霊は気まぐれな性格で、基本的に人間の言うことを聞かない。
 精霊に何かを頼みたいときは、必ず「供物」を捧げなければいけないのだ。

 それは術師の髪だったり──血や、心臓だったり。

 他者の命を奪うような凶悪な術を行使するのなら、相応の対価を覚悟しなければならないだろう。
 だからこそリアは、メイスフィールド大公家に掛けられた呪いが人為的なものである可能性は低いと見ていた。
 しかしそうなると今度は、精霊が自ら悪意をもって人間を呪った、ということになってしまい──余計に謎は深まるばかり。

「とりあえず情報が欲しいわ。何でも良いの、教えてくれない?」

 前のめりにリアが頼んでみると、エドウィンは少しばかり気まずそうに視線を逸らし、やがて控えめに頷いたのだった。

「……僕が呪いに気付いたのは……今からひと月ほど前です」