「うわっ!? 何、狼、にしては小さい……?」

 驚いたリアはつい飛び上がってしまったが、見れば見るほど奇怪な姿をした獣を、気付けばまじまじと観察していた。
 狼のような、狐のような、犬のような。大地に縫い付けられた影のごとき獣は、顔はおろか耳や爪すら黒一色ののっぺらぼうだ。
 そして、辛うじて獣と判別できる輪郭さえも、靄が揺らめくかのように形を変えて。
 青白い月光は周囲の枝葉を淡く照らすだけで、肝心の獣を暴く力はなかった。
 一体これは何だと、改めてリアは唾を呑み込む。

「精霊……? いや、こんなの見たことないし……って」

 そこでようやく、謎の獣がリアのブーツを咥えていることに気が付いた。
 囚われの私物を指差した状態で暫し硬直した彼女は、同様にしてこちらの様子を窺っている獣に、じりじりと近付いてみる。

「え、ええと、と、届けてくれたのかなぁ……? そのブーツ、私のなんだぁ……」

 意図せず息が荒くなり、浮かべた笑顔は引きつり強張り何とも気持ち悪い。
 だがこればかりは仕方ない。こんな真っ黒な獣は見たことがないし、危険性も分からなかった。とにかく向こうの警戒を解こうと、友好的な態度を全面に押し出してみたのだが。
 獣が急に唸り始める。その低く震えた声に、リアはハッと目を見開いた。

「どこか怪我してるの?」

 囁くような声量で尋ね、ゆっくりと獣に手を伸ばす。
 すると獣はビクリと体を震わせ、尻尾らしき部位でリアの手をぺしっと弾いてしまう。

「うわ! え!? ちょっと待って、どこ行くの!?」

 そしてそのまま一目散に走り出したではないか。勿論ブーツを咥えたまま。
 微かに痛む右手は後で冷やすとして、リアは右足から再び靴をすっぽ抜くと、裸足で獣の後を追いかけた。

「待ちなさーい! 逃げるなら私のブーツ置いて行ってよぉ!!」

 そう抗議しつつ全力で森を駆け回ること数分。
 木々の隙間をすり抜け、水溜まりを飛び越え、我ながら呆れるほどの執念で獣に食らいつき、やがて──唐突にブーツが進路へ落とされる。
 突然の捕虜解放にリアは意味もなく叫びながら急停止し、ぜぇはぁと深い呼吸を繰り返してくずおれた。

「つ、疲れた……」

 いくらリアが幼い頃から野を駆け回っていたとは言え、さすがに獣と鬼ごっこはしたことがない。ブーツという名の人質が取られていたから仕方なく追いかけたが、出来れば二度とやりたくなかった。
 呼吸を整える傍ら、リアは億劫な動きで周りを確認してみたが──獣の姿はどこにもなく。

「……っ帰るか……」

 己の体力の限界を悟り、がくりと項垂れたのだった。


 ◇◇◇


 数日前の出来事を思い返したリアは、目の前で微笑む美青年を凝視する。

「あのときはすみませんでした。何分、意識が朦朧としていたもので……辛うじて靴だけは放しましたが」
「え……っこわ、何、どういうこと」
「呪いが発動すると、あのような真っ黒な獣になってしまうのです」
「つまりアレが」
「僕ですね」
「ひゃあ!!」

 つい反射的に平伏しようとしたリアを、すかさずエドウィンが押し留める。
 裸足で謎の獣を追いかけ回したはずが、実はお前が追い立てたのはこんな美青年でしたなんて信じたくない。人間に変換すると絵面が非常に不味い。いや、ブーツを咥えて走る美青年もなかなかに不味いが。

「は!? じゃあエドウィン、もしかして私が森で何してたのかも知ってる……!?」

 青褪めたまま尋ねると、エドウィンは曖昧な笑みを浮かべた。

「断片的にですが、確か光が──」
「あわわわ分かった、言わないで、この国でバレたら魔女狩りの餌食だわっ」

 既に過去の出来事と言えど、メイスフィールド大公国での魔女への偏見が消えたわけではない。リアがわざわざ夜中の森でこっそりと精霊術を行使したのはそのためだ。
 誰にも言わないでと懇願するリアを眺めていたエドウィンは、やがて宥めるように苦笑する。

「言いませんよ。僕はあなたが魔……いえ、薬師だろうと思って助けを求めたんですから」
「あ……」
「どうか知恵をお貸しいただけませんか。……このまま呪いを放置しておけば、僕は本物の獣になって──誰かを傷付けてしまうかもしれません」

 それだけは耐えられないと、彼は消え入るような声で呟いた。