エドウィン観察記録と題した手帳には、主にその日の体調と眩暈の発生頻度を記している。
 伯爵邸に来るまでの二日間と、アミュレットを持たせた後の数日間とを比べてみると、眩暈は格段に減っているようだ。
 見たところ顔色もそれほど悪くなく、獣への変化も起きていない。
 しかしこれがアミュレット効果なのか、単に呪いの周期の問題なのかはイマイチ分からなかった。
 日当たりの良いテラスで涼みながら、リアは難しい顔で唸る。

「うー……ん。お守りで防げるなら、それで構わないけど……」

 エドウィンは長らく留守にしていた伯爵領の状態を確認すべく、今日も朝から執務室で溜まった書類を捌いているのだろう。
 しかし先日「大公宮から療養を認められているのだから休んでくれ」と使用人から懇願されてしまったので、きっちり昼休憩を取って夕方には仕事を切り上げることになっているらしい。
 彼の健康に関しては伯爵邸の人たちが手厚く支援してくれているため、ありがたいことにリアは呪いの分析に専念できる、のだが──。

「進まない! お師匠様からは返事来ないしっ」

 手帳を閉じ、リアはお洒落な白い椅子に深く凭れ掛かった。美しく保たれた見事な庭園を、口をへの字にして眺める。
 風の精霊に師匠への伝言を頼んだのは三日前の夜。いつもなら翌日には返事をくれるのだが、薬師の依頼が立て込んでいたり、その反動で浴びるように酒を飲んでいたりすると──伝言を聞き逃していることが間々ある。

「くっ……もう一回だけ送ってみるか……」

 どうして今回に限って、とリアは何とも呼吸の合わない師匠を恨みつつ、長い溜息をついた。

「──リア」
「あ、エドウィン。お昼休憩?」

 ぐいと頭を後ろへ傾ければ、エドウィンの姿が逆さまに映し出される。彼は硝子戸をそっと閉じると、椅子の背凭れを支えつつ頷いた。

「ええ、グレンダに追い出されてしまいました」
「ちゃんと時間守らなきゃ。皆あなたのこと心配してたわ」
「あ……そういえば、屋敷の者に検診をしてくださったと聞きました。ありがとうございます」

 エドウィンのお礼にリアは「気にしないで」と笑う。
 正直に言うと、アミュレットを作って以降やることがなくて暇だったのだ。薬の調合も出来ることだし、せっかくなら体調に不安がある人の検診でも引き受けよう、と。
 ──ちょうど話し相手も欲しかったし。
 エドウィンからは暇つぶしに書斎の本を読んでも構わないと言われたが、何となく気が引けて手を付けられず。だからと言って、彼の仕事場に突撃して「暇だから構って」と執務を邪魔するなどもってのほか。これで相手が師匠だったら殴られている。
 そんなこんなで、リアは屋敷の使用人と楽しく話しながら、無償で検診をしていたのだった。

「何人か腰を痛めてたから湿布薬をあげたけど、病気に掛かってる人はいなかったわよ」
「それは良かった」

 安堵の笑みをこぼしたエドウィンは、そこでふとリアに手を差し出す。
 目を瞬かせて彼を見上げれば、菫色の双眸がにこりと細められた。

「まだ屋敷の案内すら満足に出来ていなかったので、よければ僕にさせてくれませんか」
「えっ、そんなわざわざ……休憩時間なのに」
「はい、息抜きですよ」
「エドウィンの?」
「僕の」

 じゃあ良いかとリアは素直に立ち上がった。
 彼女の手をやわらかく引いたままテラスを出て、エドウィンは伯爵邸の庭園へと階段を下りていく。
 テラコッタの薄板で舗装された道を進むと、鮮やかな紅色の花を咲かせた低木が両脇を彩る。仄かな甘い香りと、それに誘われた蝶がリアの傍を蛇行した。
 蔦の絡みついた鉄門をくぐり抜ければ、今度は等間隔に並んだ広葉樹がリアの視界に影を落とす。樹冠の隙間から降り注ぐ光の粒を仰ぎ、彼女は感嘆の声を漏らした。

「気に入っていただけましたか?」
「ええ! 綺麗な庭ね。とっても落ち着く」

 思わず笑みをこぼしながら呟き、後ろを振り返る。木々の合間からは、陽光を反射して輝く伯爵邸が見えた。

「庭園は僕がいなくても入って大丈夫ですよ」
「いいの? 入り浸っちゃうわよ」
「夕方には屋内に戻ってくれれば。風邪を引いてしまうから」
「そんな心配されたの初めてだわ」

 師匠に一度でも「風邪を引くから気を付けて」だなんて優しい言葉を掛けられたことがあっただろうか。ない。考える必要もない。あったとすれば「馬鹿は風邪を引かないから夕飯まで帰ってくるな」だろう。
 ところで。
 リアは今もなお彼の手に乗せたままの、自分の右手を見遣る。エスコートをされた経験がなさすぎて、離しどころが全く分からない。
 自分とは違う少しごつごつとした感触を手のひらで確かめ、リアはぎゅっと握ってみる。そのまま繋いだ手を体の横へ下ろせば、先程から感じていた気恥ずかしさが少し紛れた。
 ──うん、散歩するならこっちね。
 リアが満足して庭園の見物に戻る傍ら、一方のエドウィンは戸惑い気味に口元を手で覆い──小さく咳払いをした。