「──モーセルですか。神殿の古い文献で、その名前は目にしたことがありますね」

 ゆったりと言葉を紡いだ青年は、善神の教えが記された聖書を閉じて微笑んだ。
 長くたおやかな象牙色の髪。そこに載せられたミトラや、身に纏う白と金の清楚な法衣は、彼がイーリル教において非常に高い地位にいることを示していた。
 壇上から緩慢な動きで下りてきた青年を、ヨアキムは胡乱な面持ちを隠すことなく迎える。

「……前の教皇とはまた、随分と趣向が違うな」

 遠慮のない一言に、青年──現教皇サイモンはおどけるように肩を竦めた。
 今から約半年前、西方教会がゼルフォード伯爵の身柄を独断で拘束した事件について、前教皇ザカライアは皇帝から厳しい非難を受けたという。二十五年前の魔女狩りを推進するような輩こそ、大陸全体の秩序を乱す不穏因子であるとの意見は、喜ばしいことに多くの民から賛同を得た。
 西方教会の司教ムイヤールはその地位を剥奪され、ザカライアも一連の騒動の責任を取る形で教皇の座から退いたのだ。
 それからしばらくと経たずに、教徒からの絶大な支持と共に教皇となったのが、このサイモンだった。
 皇帝と上手く付き合えそうな、魔女狩りを是としない柔軟な思考の……言ってしまえば、今までの尊大な態度ばかりが目立つ歴代教皇とは正反対の人物である。
 とは言えエルヴァスティとの禍根が消えたわけでもなし、ヨアキムは友好的な態度を一切がっさい伏せて鼻を鳴らした。

「で? モーセルについて知ってるなら簡潔に教えろ。間違っても善神の教えなんざ俺に説くなよ」
「ふふ、承知しておりますよ。ヨアキム殿」

 帝国で厚く信仰されている善神イーリルも、精霊術師にとっては一精霊。況してやその本質すら理解せずに、人に都合のよい教えばかり並べ立てた聖書など、ヨアキムには何の価値も見いだせない。
 目の前にいる異例の若き教皇に関しては──少々、警戒が必要かもしれないが。

「古の時代。(まが)を封じた聖者モーセルは、善神イーリルの兄弟であったと文献には残されています。当時、この大地には様々な神が暮らしておられましたが……彼らは次第に侵蝕する禍を恐れ、穢れなき天上へと逃れることを決めたのです」
「……その禍ってのが、影の精霊だな?」
「ええ、恐らく。今までは禍が何なのか、どこに封じられたのかも分かっておりませんでした。貴殿と弟子御のおかげで文献の解読が進んだと、学会の皆々が喜んでおりましたよ」
「学会……?」

 上機嫌に語るサイモンの横顔を見詰め、ヨアキムはぽつりと反芻する。
 クルサード帝国はイーリル教会が特に注目されがちだが、もう一つの名所としてバートランド学術院というものがある。かの学び舎は各国から生徒が集うゆえ、一神教の帝国にしては珍しい多種多様な価値観を学べる場所だ。
 なるほど、サイモンはそこに出入りしていたおかげで魔女狩りに批判的だったのかと、ヨアキムは密かに首肯した。
 ──何せあの学術院は、異国の知識を忌避する教会から放火されそうになった過去がある。いや、実際に建物の一角が燃やされたのだったか。
 被害者側に立って初めて教会の過激な行いを客観視できたのか、元より善神イーリルを信仰対象としてではなく研究対象と見ていたのか、サイモンの柔和な笑顔からは窺うことは出来なかった。

「ああ、話を戻しましょう。神々が見切りをつけて天上へ向かう中、聖者モーセルは自らの愛した大地が穢れていく様を看過できず、たった一人で禍を抑え込んだのです。しかし……」

 モーセルはそこで力尽きてしまった。
 兄弟の死を知ったイーリルはひどく心を痛め、荒れ果てた大地に最後の祝福を授けたという。善神の加護は今日に至るまで続き、人々の暮らしを見守っている──というのが聖書の内容だ。
 信徒でも何でもないヨアキムからしてみれば、善神より聖者の方が頑張っているような気がしてならないが、そこは口を噤んでおいた。

「禍を地中深くに封じたモーセルは、再びそれが大地に溢れぬよう()を掛けたと言われています。それがキーシンの王家に受け継がれる秘宝だったのでしょうね」
「杖か。あの王子の話と合致するな」

 ヨアキムは教義を聞くための座席にどかりと腰を下ろし、思案げに視線を他所に飛ばす。
 今の話を事実と仮定するなら、聖者モーセルが一際強い力を持つ大精霊だったことはまず間違いない。彼が遺した杖が、影の精霊をバザロフの遺跡から解き放つ鍵であることも、残念ながら事実だろう。
 急いでモーセルの杖をダグラスから奪い返さなければ、古の神々が逃げ出すほどの災厄が降りかかるというわけだ。
 予想していたよりも面倒な事態にヨアキムが舌を打てば、先ほどからにこにこと彼を眺めていた教皇が口を開く。

「私の話はお役に立ちましたか?」
「ああ。前の教皇だったら顔合わせるなり火炙りにしてたかもしれん」
「おやおや、精霊術師には掟があるのでしょう? 人を傷付けてはならないという」
「平気で掟を破る奴もいるって覚えておけ。俺じゃなくとも、今も逃げ回ってる罪人とかな」

 サイモンは笑みを維持したまま、何も答えない。その眼差しに居心地の悪さを感じたヨアキムは、溜息交じりに席を立つ。
 そのまま聖堂を後にしようと踵を返せば、落ち着いた声が彼の背中に掛けられた。

「何か悩まれているなら、いつでもお話を伺いますよ」 

 やはり薄気味悪い男だ。いや、これは投げやりな声を発した自分のせいだろうか。
 ヨアキムはかぶりを振ると、訪ねたときと同じ気怠げな顔でサイモンを振り返った。

「教皇様は子育てもやってんのか?」

 青年がぱちくりと目を瞬かせている間に、一方的に会話を終わらせたヨアキムは今度こそ聖堂を後にしたのだった。