光華の塔での軟禁生活から解放されて暫く、ヨアキムと共にのんびりとした日々を過ごしていたリアは、大巫女ユスティーナからの指示によって慌ただしく家を発つことになった。
 馬車を乗り継ぎエルヴァスティ王国の国境まで辿り着けば、帝国軍の鎧を身に着けた騎士らが二人を迎え、何と親切にも帝都まで護衛してくれるという。
 平民にこんな大層な護衛を、とたじろぐリアとは真逆で、元から態度のでかい師匠は馬車にふんぞり返る。気にするなと一言告げて居眠りを開始した師匠に対し、そこまで図太い神経はしていないと反論したリアだったが、まもなく一緒に眠りこけたのは言うまでもない。

「ヨアキム殿。明日には帝都に到着いたします。何かご不便などありませんか?」

 丸い月が昇る夜。川辺に野営を敷いた帝国兵が、丁寧な口調で馬車の外から声を掛ける。
 肩に寄り掛かって爆睡している弟子を一瞥し、ヨアキムは「いや」と短く答えた。

「特にない。お前たちも適当に休憩挟め。危険が迫ればこいつらが知らせる」

 ふ、と騎士の眼前を翠色の風が吹き抜ける。
 それがヨアキムの召喚した風の精霊だと知るや否や、騎士は心なしか感動した表情を露わにし、すぐさま引っ込めた。真面目な男なのだろう。
 礼を述べて焚火の方へ向かった騎士を見送り、ヨアキムは静かに溜息をついた。途中、姿勢の崩れた弟子を膝上に横たえつつ。
 開け放した馬車の扉からは、月光に照らされた小川がせせらぎと共に流れていく。夜闇に舞う赤々とした火の粉が、次第にその輝きを失っては姿を消した。

「……オーレリア」

 返事がないことを知りながら呼び掛け、ヨアキムはつと視線を落とす。
 昔から変わらぬ呑気な寝顔と、そこに彩りを添える紫水晶。嫌でも重なる面影から目を背け、彼は低く呟いたのだった。

「悪く思うなよ」

 
 ▽▽▽


 長い馬車での旅路を終え、帝都の街並みを見渡したリアはみるみる頬を紅潮させた。
 ずらりと建ち並ぶ三角屋根の高層住宅と、その合間に張り巡らされた蜘蛛の巣のような街路の先に、白亜の壁と漆黒の屋根が特徴的な皇宮が聳え立つ。元は防衛拠点として築かれたガーランド城が、長い時を掛けて皇室の宮殿として改装されたという話は有名だが──遠目に見ても分かるほど立派な城郭である。
 黒地に金色の紋章が描かれたクルサード帝国の旗が街の至る所で堂々とはためけば、彼らが歩んできた激動の時代が自然と想起された。

「わあーっ帝都なんて初めて! 大公国もめちゃくちゃ広かったけど、あそこよりもっと大きいわ……!」
「そこの田舎者、置いてくぞ」
「もうちょっと感動に浸らせてよお師匠様! 後でお土産買いたい! イネスにあげるやつ!」
「またアハトの小僧を忘れ去ってるなお前」
「あっ。覚えてるわよ」

 メリカント寺院で大巫女の留守を仰せつかったイネスと、王宮で変わらず騎士団の務めに励んでいるであろう幼馴染のアハト。二年半前にエルヴァスティを飛び出したときと同様、またしても二人に出発の挨拶をし損ねたリアは、せめて帰国時に土産物を買うことでお詫びにしようと考えた。
 ──アハトは何が欲しいか分からないし別にいいかな、なんて思考は師匠にあっさり見抜かれていたようだ。
 リアとヨアキムの傍では、帝国兵が相変わらずきびきびと護衛を全うしている。たまにリアが話しかけると律儀に応じてくれるが、甲冑に包まれた表情は全く崩れない。そのため騒々しいのは結局この師弟だけである。

「ねぇお師匠様、何でいきなり帝国に呼ばれたの? まだ説明受けてないわよ」
「あ? 面倒だからもう皇宮で聞け」
「ものぐさ!」

 賑やかな人混みの間をすり抜けながら、リアは不満げに師匠の背中をぺしりと叩く。これから恐れ多くも皇宮に足を踏み入れるのだから、せめて事情くらいは知っておくべきだろうに。
 ──まあ、まさか私が皇帝陛下に会うわけじゃないだろうし……そこまで気にしなくても良いかしら。
 リアは肩を竦めつつ、眼前に迫ったガーランド城を仰ぐ。こちらに建物が倒れて来そうな錯覚に陥った彼女は、早々に見物を辞めて顔の向きを戻したのだった。
 このときすっかり油断していたリアが、数か月ぶりに()()()の事態に遭遇して白目を剥きかけるまで、それほど時間は掛からなかった。