「あ。しまった……忘れてた……」

 時計屋さんは慌てるような言葉を落としたが、口調はひどく気怠げで、のんびりとした動作で椅子から立ち上がり、眼鏡を外しながら室内の一角にある棚まで歩いて行く様子は、とても慌てているようには見えない。

「……」

 そこには大中様々な目覚まし時計が所狭しと置かれていて、時計屋さんは針の波を両手でかき分けながらきょろきょろと目線を漂わせ、数十秒後にやっと探り当てたらしい一つを片手に持つと、少しの間ジッと見つめてからわずかな隙間へねじ込むように棚へ置き直した。
 ほとんど背中しか見えなかったため、彼が目覚まし時計で何をしたかったのか……それとも、すでに何かしたのか。詳細はわからない。

「うーん……帽子屋、怒ってるかな……どうせ怒ってるんだろうな……怒られたらめんどくさいな……」

 片手で頭を掻きながらあくび交じりに呟いて、ただでさえ緩く結ばれているネクタイを更に緩める時計屋さん。彼は再度「めんどくさい」と捨て台詞のように吐き捨てると、どさりと椅子に腰掛けて眼鏡をかけ作業を始めてしまった。

(自由な人……)

 しばらくの間、カチャカチャと時計を修理する音がしていたかと思えば、突然ガリゴリと何かを噛み砕く音に変化する。
 
(……あれ? 今、)
 
 瞬きの間に、目まぐるしい速さで針が進んだような気がしたが、錯覚だろうか?
 壁に飾られている無数の振り子時計から時計屋さんへ目線を移すと、背もたれに全体重を任せ机に両足を乗せて『チョコチップ』と書かれた袋を抱える時計屋さんの姿が目に入った。

「……あの……仕事? は? もういいの……?」
「ん? 飽きるまでは一応やったよ」

 気の抜けそうな声と共に指さされた机の上には、積み上げられた書類の山と、綺麗に陳列された目覚まし時計が十数個。
 
(え? そんなに時間経ってた……?)
 
 いつの間に片づけたのだろうかと不思議に思い首を傾げると、先ほど耳にしたガリゴリ音が再開される。
 
「えっ、と……チョコチップ……が、好きなの?」
「……ああ、そっか。アリスは忘れたんだね」

 忘れた。以前も耳にした言葉だ。
 忘れたとは言わせない、と。ネムリネズミに、

「大丈夫。いいよ、俺は一番わかってる」

 目線を逸らしたまま、無表情で吐き捨てる時計屋さん。なぜか機嫌が良くないという事だけは理解できたが、何が原因なのかはわからない。

(私、が?)

 忘れてしまった、私が悪いの?

「いいんだよ、アリス。忘れてしまって構わない。いらない記憶は、捨ててしまえばいいんだ」
(誰……?)

 頭の中で、包み込むような優しい声が響く。忘れていい、捨ててしまえばいい、と。

(いらない記憶は、捨ててしまえば……)
「そう……そうしてしまえば、“時計屋は“大丈夫だ」

 暗示のように言い聞かされ、たったいま頭の中で交わした言葉や、時計屋さんが不機嫌になってしまう直前までの光景がビデオテープのように巻き戻され、直後にプツリと切り離される感覚がした。

「……? 時計屋さんは、チョコチップが好きなの?」

 純粋に抱いた疑問を投げかけた私を見て、時計屋さんは訝しげに片目を細める。
 別段おかしな質問はしていないはず、と真っ直ぐに瞳を見つめ返すが、彼は眉を寄せて目線を逸らし「……まあね」と短く答えた。

「……アリスはもう寝た方がいい」

 どうしてなのか、時計屋さんは私を見ない。

「ええ、それじゃあ……そう、させてもらうわ」
「……うん」

 なぜか機嫌の悪そうな時計屋さんを少し心配しつつ、案内された客室のベッドへ潜り、ゆっくりと眠りに落ちていく。

「……今はまだ、いらない記憶だ」

 子守唄のような懐かしい声が、どこか遠くに聞こえた。