私は後先や深いことなど何も考えずに、目の前の哀れな子を救うという一種の『ゲーム』をプレイする気持ちでアリスの世界に干渉した。
 はじめこそ『アリス』に対する特別な感情はなに一つ抱いておらず、自分たちの記憶に齟齬が生じている事に気付きさえしない者達を、心の中で嘲笑っていたのは事実である。

 元の世界へ帰ったあと、当時五歳だったアリスはそれからも母親による虐待を受け続け、父親からも空気のような扱いをされるだけの生活に戻っていた。

(可哀想に……不幸な子だ……)

 アリスは不思議の国から、ジョーカー……偽物の『兄』を連れ帰ったものの、すでに亡くなっている存在がそこに居るのは“あってはならない”現実である。
 例え倫理や道徳が許したとしても、神は決して許さない。

(……辻褄を合わせるなど簡単なことだ)

 あの時の私はそんな風に考えて、アリスやその周囲の人間から『ジョーカー』の死に関する記憶を全て消し、代わりの記憶を埋め込んで、そこに『彼』がいても何ら不自然ではないよう舞台を整えたのだ。
 私にとって、それは赤子の手をひねるより造作も無いことである。

 だが――あの時の私はただ、とても愚かだったのだ。

「……何か、忘れている気がするわ……どうしてこんなに、心がざわつくのかしら……」

 アリスの母が頭を抱えていても、どうせ思い出せはしないだろうと高をくくっていて、

「ジョーカー……何か、あったような……何かおかしい……」

 ぽつりと芽の生えた違和感を放置した結果、歪みは少しずつ大きくなり、

「……そうだ、そうだわ……! どうして今まで忘れていられたの!? ジョーカーは、」

 アリスの母だけは、思い出してしまった。
 ジョーカーが――すでに、死んでいるのだと。

「……それじゃあ、あの男は誰……?」

 それが、“偽物ジョーカー”であると、気づいてしまったのだ。

 けれど、

「ジョーカーはもう死んでいる、だと? はぁ……いい加減にしてくれ……」
「どうされました? あなた」
「この女が、また頭のおかしなことを言っているんだよ……本当にうんざりする」
「まあ……まだ未練があるからって、虚言を言い触らすのもいい加減にしてくださいな」

 誰一人としてアリスの母を信じるものはおらず、

「どうして、みんな私を信じてくれないの……!?」

 すでに限界の近かったアリスの母は、その件をきっかけについに精神が壊れ、結果――……自身の元・夫であるアリスの父を殺し、アリスを殺そうと試みて『兄』の命をもう一度奪ってしまい、最期は自分の手で命を絶ったのである。
 その凄惨な光景を見て初めて、私はひどく後悔した。

(私の、せいだ……なぜ、なぜだ……? どうして、こうなった……? 私は……私は、いったい、なんて取り返しのつかないことを……)

 愛していた存在と、愛されたかった対象。その全てを亡くし、実質二度目になる兄の死を目の当たりにして、

(違う、違うんだ……私は、こんな結果を望んだわけでは無い……君から、全てを奪いたかったわけじゃないんだ。アリス……)
「あ、ああ……あ……いや……」

 少女の心と精神は、限界だった。

「いや、いや……っ、ああ……っ」

 ――……このままでは、アリスまで壊れてしまう。

「……っ、白ウサギ!! あの子を……アリスを、今すぐこの国に連れて来るんだ!!」



 ***



「ああ、あ……あ、あ……いや、ああっ……! あああ……っ!!」

 泣きじゃくりながら狂ったように頭をかきむしる幼い私。
 そのすぐそばで倒れていたジョーカーお兄様の死体が、ゆっくりとした動きで起き上がる。

「はっ、はぁっ……ふっ、ぐ、うっ……」

 彼は顔を歪ませ肩で息をしながら口元の血を手の甲で拭い、絶えず血が滴る首筋の傷に片手で触れた。
 すると、ぴたりと血の流れは止まり、手を離した次の瞬間には傷が跡形も無く消えていて、

「アリ、ス……」
「……っあ、ああっ……! いや、あ、あっ、いや……っ!!」

 一歩ずつ歩を進めるたび、『彼』の容姿が変化する。
 セミロングの黒髪は腰まで伸びて、緑の瞳が海底のような藍色へ染まり、口元に牙がのぞく――私のよく知る、サタン・ジョーカーに。
 彼は、

「……アリス……」
「やだっ! やだ……!! あっちいって、いや……っ! さわらないで!! また、死んじゃう……!! みんな、アリスのせいで死んじゃう!!」

 幼い私がどれだけ暴れても、全てを受け止めるかのように優しく抱きしめたまま、耳元でこう囁いた。

「……アリス、大丈夫だ。もう、大丈夫……」



 ***



 小さな私の記憶はそこで途切れてしまい、エースは口頭で付け足す。

「……そして、今に至る」
「……なんですって?」

 今に至る……?相変わらず意味がわからない。
 最後に見たジョーカーお兄様の姿……あれは、確かに『サタン・ジョーカー』だった。

(……? あれ……?)

 それじゃあ、つまり……?
 思考が絡まり、うまく状況の整理ができない。

「この世界から帰った後の兄は、全てジョーカーが能力で姿を変えていただけだ」

 ジョーカーは何にでもなれる。けれど……“何にもなれない”ジョーカー。
 あの台詞には、皮肉も込められていたのだろうか。

「……以前、アリスが初めてこの世界に来たのは……三年前」
「三年前……?」

 えっと、だから……五歳だった私に三年足せばいいだけで、

「アリスの本当の年齢は、八歳だ」
「……え?」

 ――……八歳?

「そ、そんな……冗談よね?」

 では、今の私の姿は何と説明すればいいのだろうか?
 この国に来てから鏡を見る機会が何度かあったけれど、低く見積もっても十代半ばの外見をしているのだ。
 本来の私が八歳だというのなら、“これ”は一体どういうことなのか。

「……簡単な話だ。私が時計屋から時間を買い、それをアリスに付与させていたからだ」
「時間、を……?」

 エースが言うには、時計屋さんから時間を買って私の姿や思考レベルを成長させていたという理論らしい。
 そういうことなら、私にも理解できる。以前、少年の容貌をしていた帽子屋さんが急に大人の姿へ成長……いや、戻っていたのを直接目にしているからだ。
 時間を使って成長させることができるのなら、退化させることもこの国では可能なのだろう。

「だが……見た目をうまく取り繕えても、やはり内面においては幼い部分が残ってしまった」

 困ったように笑いながら、「気づかなかったか?」とエースは問う。

「すぐに泣き、自分の中で上手くセーブできず感情的になることが多く、現実から目を逸らす……他人に対しての危機感や警戒心が薄く、細かいことは気にせず深くも考えない。レディに憧れて、妙に大人びた喋り方をする……他にもあるが……それらは全て、アリスがまだ八歳の子供だからだよ」

 言われてみれば、思い当たる節がいくつかあった。

「……そういう、ことだったのね……」