「あーあ! アリス、どっか行っちゃったじゃん! つまんないの!」

 アリスが立ち去った公園。
 お茶会の席に用意された椅子の長い背もたれに体重をかけ、後脚で器用にバランスを保って揺らしながら、イカレウサギが不満気な声を漏らす。彼が横目でネムリネズミを睨みつけても、当の本人――本ネズミは、そんなものを気にもとめず、角砂糖を縦に積み上げていく作業に勤しんでいた。
 
「……」
 
 テーブルを蹴って、あのネズミに建築された甘いタワーを崩してやろうか。そんな事をイカレウサギが考えていると、なにか小さな音が長い兎耳に届く。
 そちらに目をやれば、どこから現れたのか……サタンが我が物顔で席に着き、呑気に紅茶を啜っていた。

「チッ……来やがったのかよ、ジョーカー」
「ああ、居たのかイカレウサギ。気分はどうだ?」

 サタンの嘲るような口調が癪に触ったのか、イカレウサギは噛みつくような目で悪魔を睨みつける。

「アリスを殺すのには失敗したらしいな。もてなしの紅茶に毒の一つや二つ仕込んでおけば、無知な小娘一人くらい殺してやれただろうに」
「……お前、アリスのボディガードをしてるんじゃなかったのかよ」
「ああ、そうだな。俺は『死なないように協力してやる』とアリスに言った。だが、『アリスを殺してやらない』と言った覚えはない。嘘は吐いていないと思うが?」

 喉を鳴らして愉快そうに笑うサタンを見て、イカレウサギは眉間に刻んだシワを更に深くして両手の拳を握りしめた。
 その隣で、眠そうに瞬きを繰り返すネムリネズミはシュガータワーの建設に勤しみ、帽子屋は我関せずといった表情でマフィンを口にしている。

「ジョーカー……“アリスを守れなかった”お前なんかに、大好きなアリスは渡さない。もう二度と、お前なんかに任せない。アリスは俺のものだ、俺が殺してあげるんだ。俺がアリスを救ってあげるんだ」
「口だけは達者だな。だが……もし、お前が『ジョーカー』でもないのに、私利私欲のためにアリスを殺そうとしたなら……その時は、俺が先にお前を消してやる」

 今まで涼しい表情をしていたサタンのまとう空気が、途端に冷たく重いものへ変化し、殺意の色が滲む藍色の瞳でイカレウサギを睨みつけた。
 しかし、イカレウサギは微塵も臆する様子を見せずに言葉を紡ぐ。

「俺は、殺される前に殺してやる。アリスも、ジョーカー……お前もな」
「はっ、できるものならな」
「できるよ、できる。お前さえ消えてしまえばこっちのものだ。お前を消して、その後……アリスは、俺が殺してあげるんだ」

 椅子から立ち上がったイカレウサギは、俯いて「ふふふ」と気味の悪い笑みをこぼすと、切り分けられ目の前に置かれていたケーキに向かって、手に持っていたナイフを突き立てた。
 ドチュッという鈍い音が響き、飛び散ったクリームや苺の果汁がイカレウサギを汚す。同時に、ネムリネズミがひたすら積み上げ、乳飲み子一人分ほどの高さを築いていた角砂糖のタワーがばらばらと崩れ落ちた。

「アリス……アリスはね、俺がアリスを大好きだから、アリスも俺のことが大好きなんだ! だから、俺に殺されたって悲しんだりしないよ! そうだ、泣いて喜んでくれるんだ! 血で真っ赤に染まって、あの目に俺を……俺だけを映して、『ありがとう大好き』って言うんだ! 俺はアリスを救える! あ、大丈夫! 死体は全部ちゃんと俺が綺麗に食べるよ! ああ……アリスの最期の瞬間、アリスの血の匂い、アリスの肉の味……想像しただけでゾクゾクする……アリス、アリス……俺のアリス」
 
 俺の、とイカレウサギが口にした瞬間、サタンの瞳が大きく見開かれる。
 同時に、彼の右手には一枚のトランプが現れ、それを瞬時に拳銃へ変化させると、銃口をイカレウサギに向けて素早く引き金を引いた。
 鋭い銃声が、仄暗い公園に響き渡る。
 だが、撃たれたはずの彼は無傷のまま、気が狂ったかのようにケラケラと笑い続けており、イカレウサギの眼前――テーブルの上には帽子屋が土足で飛び乗り、サタンの手首を掴んで銃口を空へ向けさせていた。

「……帽子屋、どういうつもりだ。お前がそんなに仲間想いだったとは知らなかったぞ」
「はぁ……『仲間』なんて、そんなめんどくさいものはどうでもいい。ただ、」

 帽子屋が「そこ、」と言って指差す先には、イカレウサギがケーキを刺した際に衝撃でひっくり返ったらしいティーポットがあり、中に入っていた紅茶が白い湯気を揺らしながら流れ出ている。

「火傷するぞ、サタン・ジョーカー。この席からは、離れた方がいい」

 帽子屋がそう言うとサタンは拳銃をトランプに戻し、目を逸らしたまま「……邪魔をしたな」と短く言い残して煙のように姿を消した。

「……はぁ。お茶会が台無しだ」
「僕のシュガータワーもね」

 帽子屋は怒り心頭の様子で呟くネムリネズミをちらりと横目で見たあと、テーブルの端に置かれた時計へ目線を移す。
 針が指しているのは三時五分。それを見て、帽子屋は眉間にシワを刻みながら深くため息を吐いた。

「三時からもう五分も経ってる……時計屋の奴、またサボってるな……」

 テーブルの上であちらこちらに散らばる時計の中から適当な物を手に取り、裏側のネジを巻き戻しても針は全く動く気配を見せない。ただ、秒針だけが規則正しく働き続け、己の仕事を全うしている。
 帽子屋は何度目かになるため息を吐き、時計をぽいと放り投げると小さく呟いた。

「……お茶会が、できないな」