花屋の処刑まで、残り一日。

 アリスと話をした『あの日』から、彼女に投げられた言葉や目にした泣き顔が頭の中で何度も繰り返される。

「……」

 花屋を助けて、と泣くアリス。俺の服を掴む、もみじのように小さな手。
 瞼を閉じるとより鮮明に思い出してしまうだけで、夢の中でも少女は俺を責めていた。

『やくたたずのおうさまなんかじゃない……!!』

 なあ、アリス。
 見ていることしかできない俺が“役立たず”じゃないのなら、いったい何だって言うんだ?

『おうさまは、ほんとうは、やさしいひとだって……!』

 俺はな……あの時その言葉を聞いて、「本当の俺を何も知らないくせに」と思ったんだよ。
 アリスは、そんな俺が優しい人だと本気で思えるのか?

『はなやさんが、しんじゃうんだよ……おうさまは、ほんとうにそれでいいの……?』

 ごめんな、アリス。
 俺にはあの時、嘘をつくことしかできなかった。

(良いわけがない……本当は、)

 アリスのことも、花屋のことも助けたい。
 処刑なんて、したくないに決まっている。

(……アリスの泣き顔なんて、見たくなかった……)

 何もできない役立たずのくせに、後悔ばかりは一丁前だ。
 考える事をやめれば良いだけだとわかっている。いつものように、感情を殺して流れに身を任せればそれで済む。

(……何でこんなに、悔しいんだ……もどかしくて仕方がない、吐きそうだ……)

 昨日――アリスと廊下ですれ違った際。彼女は何か思い悩む様子で足元に敷かれた赤い絨毯に目線を落としたままで、たった一瞬ですらこちらを見ることはなかった。
 きっと、愛想を尽かされたのだろう。それとも、視界に入れたくないレベルまで嫌われたのか、深く恨んでいるのか……だが、どれも当然のことだと思う。

「キーング!」

 俺の暗い気持ちを吹き飛ばしに来たかのような明るい声が耳に届き、同時にとんと肩を叩かれてゆっくり振り返ると、そこには能天気な笑みを浮かべるジャックがいた。

(……気楽で良いよな、お前は)

 表情を殺したまま「なに?」と返した途端、ジャックはいつになく真剣な表情を浮かべる。

「あのさあ……キング、最近なんだか元気ないよな。いや、いつも元気ではないけどさ? ほら、誰だっけ……あー、だめだ。またど忘れしちゃったんだけど……女王陛下が死刑しろって喚いてた日から、特に落ち込んでないか? 何か悩みがあるなら聞くぜ?」
(……は? 元気がない? 落ち込んでる? 誰が……?)

 アリスの近くにさえいなければ俺は常に感情を殺せているはずで、城内で誰かに内心を悟られたことなんて一度もない。

(……なんだ? お前は……“ハートの騎士”のくせに……女王に代わって、俺を探りにでも来たつもりか?)

 ――……ああ、いけない。また、心がざわつく。

「……お前には関係ない」

 馴れ馴れしく肩に置かれたジャックの手を振り払い、背を向けて歩き出そうとしたところで、騎士は「いや、関係ある」と言いながら腕を掴んできた。

「アリスに頼まれたんだよ。キングのことが心配だから、自分の代わりにキングを守ってほしいってさ。まあ……それはちょうど俺も全く同じ事を考えてたから、大義名分を得てラッキーって感じだ!」
「……守ってもらう必要はない。『お前』は女王陛下の警護でもしていろ」
「それと、もう一つ。俺はさ、キングの笑った顔が見たいんだよ。それが、あのー……ほら、なんて言うんだっけ……目標? 願望? そんな感じで、だから……元気のないキングなんて、見たくないんだよ」
「……元気がないも何も、俺は普段から笑ったりしないだろ。手を離せ」

 自分で言うような事ではないが、事実“そう”なのだから仕方がない。
 ジャックの手を再度振り払おうとするものの、無駄に強い力でぐいと引き寄せられる。

「俺……一回だけ見た事あるよ、キングが笑ってるところ」



 ***



「キングは、女王陛下に言い返したくならないのか?」
「……ない」
「へえー! さすがだな! すごいなー! 俺がキングだったら、絶対『うるせえな! 俺よりランクが低いくせに、楯突くな!!』って言い返す自信があるぜ!!」
「……」
「え? キングもそう思うだろ?!」
「……ふっ……ふふっ、あははっ……! ああ、そうだな……お前が俺だったら、良かったのかもしれないな。ははっ」



 ***



(なに、言って……)

 俺でもいつの出来事だかわからないようなものを、この騎士はいつまでも記憶に刻んでいたというのか?

「あの時……『アリス』じゃなくても、こんなに綺麗に笑う人間がこの世界にはいるんだって、すごく感動した。だから俺は、キングにまた笑ってほしいんだ。俺はアリスのことが大好きだけどさ……同じくらい、キングのことも大好きなんだよ」
「〜〜っ!!」

 瞬間的に湧き上がった怒りで、全身の血が頭に集まるような錯覚を覚えた。
 他の全てを気にして構う余裕すら失い、感情のままに吐き出した言葉を叩きつける。

「嘘をつくな!! お前の言う『好き』だなんて、ただ……それがお前の役割だからだろうが!! 本心でもないくせに……守るだなんだとどうせ口先だけで何もできないのなら、軽々しくそんな言葉を吐いて余計な期待を抱かせるな!!」
「キング……」
「お前は俺の騎士じゃないだろうが!! ハートの騎士はいつか必ずダイヤのキングを裏切る!! そんな言葉で、俺が騙されるとでも思ったか!? 分かったら、お前は黙って女王のお守りでもしてろ!!」

 ハートの騎士が向けてくるものは所詮、偽りの言葉と感情。そんなものを真に受けて本気にするなんて、ただの馬鹿だ。
 俺を好きだと思うのが事実だったとしても、それは――『それ』がこいつの役割だから、ただそれだけの事。
 本当の気持ちはどこにもない。

「はぁっ……はぁっ……」
「……そうか、なるほどな……俺が“ハートの騎士”だからいけないんだな……よし、わかった」

 ジャックは顎に片手を置いて少し考えるような素振りを見せた後、おもむろに自分の胸ポケットからペンを引き抜き一瞬で剣へ変化させると、グリップを両手でしっかり握りしめた。

(……ほら、嘘だった)

 こちらへ斬りかかってくることを想定して身構えた瞬間――……剣の切っ先は、真っ直ぐにジャックの頬を切り裂く。

「!?」

 刃を伝い落ちた血が赤い絨毯に染みを作り、ジャックは眉を寄せ脂汗を流しながら右頬に『何か』を切り刻んでいた。

(なに、して……)

 自由になった両腕は止めに入ることすらできず、目の前の光景にただ呆然としていると、ジャックはやっと自傷行為をやめて剣をペンに戻す。

「……っ、キング。これで……俺のこと、信じてくれるか?」

 ジャックの、正面から見て左側――俺と逆の頬には、ダイヤのマークが描かれていた。
 傷からは絶えず血が滴り落ちていて、騎士の服を少しずつ赤に染めあげていく。

「……な、に、して……なにして、るんだ……お前……」
「だから、さっきも言っただろ? 俺はキングのことも大好きで、キングの笑った顔が見たいんだって」

 ジャックは「だからそんな苦しそうな顔しないでくれ」と、困ったように笑いながら俺の左頬を片手で撫でた。

「……『ハートの騎士』は、今ここで死んだ。俺は今日から……ダイヤのキングを守る、『ダイヤの騎士』だ。これからは俺が守ってみせるから、もう一人で苦しまなくていいんだぜ。だからさ、キング……笑ってくれよ」
「……っ、」

 頬に置かれたジャックの右手――手袋に包まれたその甲に、ハートのマークが刻まれている事を俺は知っている。

(……本当に、こいつは……)

 俺なんかのために女王を裏切って……本当に、どこまでも頭が悪い奴だ。

「……ジャック、お前は……本当に、馬鹿だな……」
「ははっ! キングが笑ってくれるなら、俺は『馬鹿』なままでいるぜ?」

 そう言って、へらりと笑うダイヤの騎士。頬の血はいつの間にか止まっていた。
 あたたかいものが心にじわりと広がり始めた時、

「……何を、しておる……? キング、ジャック……」

 飽きるほどに聞き慣れた声が鼓膜を揺らし、反射的に心が凍りかける。
 ゆっくりと目をやれば、そこには案の定……怒り心頭の様子で顔を真っ赤に染めた女王が、白ウサギと手を繋いだまま立っていた。

「ははっ! 何って、女王陛下の目は節穴ですか? ご覧の通り、キングと俺は仲良くしているんですよ」

 ジャックがこれ見よがしに俺を抱き寄せながらそう答えると、大きく目を見開いて女王は言葉を落とす。

「キング、命令じゃ。ジャックを処刑せよ」
(……処刑……?)

 ――……ジャックを、処刑。
 まただ。また、俺がしなくてはならないのか?
 今度は……大切な友達の次は、俺の騎士を。

「聞こえなかったのか!? ジャックを処刑せよ!!」
(……嫌だ……もう、嫌だ……)

 もう……耐えられない。
 感情を、殺せない。人形になりきれない。もう、だめだ。無理だ、できない。嫌だ、嫌だ……!!
 だって、

「キング!! 返事をせぬか!!」

 俺は――……心を持った、人間だから。

「……だ、」