他に行くあてがないらしいアリスは俺の店に住み始め、二人での生活にも慣れてきた頃。

「ふぁー……」

 午前八時。
 まだ夢の中にいるアリスを起こさないよう気をつけながら布団から抜け出し、店のすぐ外に椅子を運んで適当な場所で腰を降ろした。

(眠気覚まし、眠気覚まし……)

 ポケットから煙草を一本取り出して口に咥え、ライターで火をつけながら空を仰ぎ見る。
 時間的にはまだ朝だと言うのに、雲はすっかり綺麗な赤色へ染まり、太陽がその身を隠し始めていた。

(……今日の『朝』と『昼』は短かったな。三時間くらいか?)

 吐き出した煙は赤い空へ吸い込まれるようにふわふわと上っていく。
 何もかもが歪んでいるワンダーランドだというのに、景色はこんなにも透き通っていて眩しいのだから、まさに不思議の国だ。

「……はなやさん……」
「!?」

 音もなくすぐ隣にアリスが姿を現し、驚いた拍子に危うく煙草を落としかける。

「起きたのか。おはよう、アリス」
「うん……おはよう、はなやさん」

 片手に持った煙草を風下に移動させて花びらへ変化させ、まだ眠そうに目をこするアリスの頭を撫でた。
 先ほどよりも覚醒したらしいアリスは、ひらひらと宙に舞う花弁を大きな瞳で不思議そうに眺めている。

(可愛いな)

 かと思えば、とても真剣な表情を浮かべて俺に向き直った。

「アリスね、じゅうだいなことにきづいたの!」
「うん?」

 重大な事。
 それは一体どんなことだろうか?と考えつつ笑顔で相づちを返し、体を屈めてアリスに耳を寄せる。

「あのね、はなやさん……ここね、『はなや』なのにね、おはながないの」

 秘密を打ち明けるように声を潜めてアリスが落とした言葉は、それだけだった。

(……『花屋』なのに、花がない)

 ああ、そういえば。言われてみればそうだった。
 ここは仮にも『花屋』だというのに、店内や店外に花は一輪も用意されていない。それが、アリスにとっては「重大な事」だったらしい。

「うーん、そうだなー……」

 小さく笑いながらアリスの頭を優しく撫でて「花は必要ないんだよ」と言えば、少女は不満げに眉を寄せる。

「お客さんが来て必要になったら、花はいつでも用意できる。だから、わざわざ店に置いておく必要がないんだよ」
「……」
「ほら、」

 指をぱちんと鳴らして適当な花を一輪出して見せたが、アリスはご機嫌斜めな様子のままだ。

「……」
「……?」

 好きな花ではなかったのだろうかと思い先ほどとは別の花を出せば、眉間に刻まれたしわがますます深くなるだけで。
 しばらくすると、小さな両手で俺の手を包み込んでアリスは言った。

「きちんと……うえて、そだてて、さかせないとだめ……! そうじゃないと、おきゃくさんにしつれいだとアリスはおもうの!」
(植えて、育てて……)

 なあ、アリス?
 だって、そんなことをしたらさ……芽吹き、蕾ができて、花開くたびに、皆は口を揃えて“呪いの言葉”を使うじゃないか。

(俺は、それを聞くのが得意じゃないんだよ……)

 一生懸命、丹精込めて花を育てていると、それを見た周囲は「綺麗ね」と言う。
 悪意が無いことも、自分に対して言われているのではないことも頭ではきちんと理解できているのに、どうしても心が受け付けないのだ。

 頭が痛くなる。
 吐き気がこみ上げる。

 店に花を置かないのも、自身にあまり似合わないと自負しているピンク色のエプロンを着けているのも、全てわざとだ。
 綺麗という言葉を、回避するためだけの行為。
 それに、俺を見た人は必ず先に「それ、似合わないね」と笑ってくれる。このエプロンは、俺にとってのお守りだ。

「……綺麗だって言われるのが、苦手なんだよ」
「そうなの……?」

 一つ頷いて、アリスを抱きあげ膝の上に座らせる。
 無理やり浮かべた笑顔の奥に隠した感情を見透かすように、アリスは空色の瞳に俺を映した。

「……どうして、にがてなの?」
「俺は男だから、そんな言葉は似合わないだろ?」

 少女の寝癖を撫でつつ言葉を落とせば、不思議そうに何度か首を傾げて見せる。
 少しの間を置いて、アリスは真っ直ぐに俺を見据えてこう言った。

「アリスは……はなやさんのこと、きれいだとおもうよ」



 ***



「お前は綺麗だね。綺麗……とっても綺麗な子」

 ――……母さん、俺を呪うのはもうやめて。



 ***



 脳の芯まで響くような頭痛が始まり、思わず顔をしかめる。すると、アリスの小さな手が俺の頭を優しく撫でた。

「!?」

 まるで魔法でも使ったかのように途端に痛みは引いていき、

(……何でだ?)

 不思議に思いアリスを見やれば、少女は微笑みながら歌うように言葉を繋いでいく。

「はなやさんは、こころがとっても『きれい』だとおもうの」
「……心……?」
「うん。はなやさんは“おとな”なのに、こころがとっても『きれい』だから、アリスはこわくないよ。はなやさんのこと、だいすきだよ」
「アリス……」

 心が綺麗だなんて、生まれて初めて言われた。
 不思議でたまらない。同じ言葉を使っているはずなのに、あんなに心が拒絶反応を表していたというのに……アリスのその言葉を、素直に「嬉しい」と受け取ることができる。
 長い間、心の中で詰まっていた『何か』が全て消えていくような感覚だ。

 やっと、呪いが解けたようにも思えた。

「……ありがとう、アリス……俺も、アリスのことが大好きだ」

 後ろから力強く抱きしめてそう囁くと、少女はどこか照れ臭そうにはにかんだ。

「明日、花の種をたくさん植えて……それが咲いたら、この店いっぱいに花を飾る!」
「……!! ほんとう!?」
「ああ、本当だ。俺はアリスに嘘なんてつかない」

 嬉しそうに瞳を輝かせるアリスに笑顔を向けて頷けば、「やったー!」と言いながら自身の体に回されている俺の腕を抱きしめてくる。
 そんな様子に心が癒されていた時、

「……花屋、女王陛下がお呼びだ」

 感情のこもっていない冷たい声が、鼓膜を揺らした。

「……」

 顔を上げると、すぐ目の前にいる声の主と目線が交わる。
 光を無くし、凍てつくように冷たい色をした緑の隻眼。もう片方の瞳は眼帯に覆われており、風になびく赤いマントと、頭上で主張する金色の王冠が印象的なその人物。

「……だあれ? おうさま?」

 左の頬にはダイヤのマーク、ランクは十三。
 この国の頂点に君臨する、ダイヤのキング――『王』の姿が、そこにあった。

「よう、キング」
「……黙ってついて来い」