「お前は本当に美しいね」

 美しい。
 それは確かに俺を褒め称える言葉だというのに、

(母さん、俺……全然嬉しくないよ)

 やめてほしい。
 もう、その呪いを俺にかけないでくれ。

「ああ、綺麗……お前は本当に、綺麗だね……」

 娘のようだ、と母は言う。
 美しい、綺麗。役割もランクもない彼女はただ、その言葉を繰り返した。

 やめてよ、母さん。俺は男だよ。

「本当に、女の子みたいに綺麗だね……」

 違う、違う。女の子なんかじゃない。そんな言葉は、欲しくない。
 お願い、母さん。俺を見て。あなたの『息子』である、俺を。

「お前だけは、母さんのそばにいて……どこにも行かないで……母さんを、愛しておくれ」
「……うん、わかったよ。母さん」

 じゃあ、母さんを……『女』をちゃんと愛したら、母さんも俺のことを見てくれる?

「母さん以外の女なんて、愛さなくていいからね」

 どうしてそんなひどいことを言うの?母さん。
 俺は男だから、女のことを好きになるよ。

「ううん……お前は、女の子……可愛い私の、一人娘」
(母さん……俺は、あなたの息子だよ)

 あの日から、ずっとそうだ。おかしくなった母さんはずっと、俺を通して他の『誰か』を見ている。
 俺に、“彼女”を重ねている。

(……母さん、ごめんなさい)

 ――……俺が殺した、姉さんの姿を。

『姉さん、姉さん……! 違う、こんなはずじゃ……!』
『……誰よりも愛してる。だから、お願い。あなただけは、何があっても――……』



 ***



「……っは……!」

 いつの間にかうたた寝をしていたらしい。
 店のカウンターに伏せていた顔を弾かれたように上げ、耳の奥でこだまする心臓の鼓動を聞きながら息を整える。

(夢、か……いや、当たり前だよな……)

 もう、どれだけ前のことだったかもわからないような思い出を蘇らせて感傷に浸るなんて、あまりにも女々しい。

(俺は、男だ……)

 今だに母からの呪いを解けていないのだと改めて痛感し、大きなため息を吐いた。

「あれ? うたた寝してたの? 花屋は暇そうで羨ましいなあ」

 汗で額に貼り付いた前髪を指ですくいとりつつ立ち上がると、笑い混じりの声が店の中で小さく響く。
 一つ息を吐いてそちらに目をやれば、ひらりと片手を振る黒ウサギが立っていた。

「ご飯、まだ? お腹空いたんだけど」
「……悪い、もうそんな時間だったか。すぐに作るから、少し待っていてくれ」
「仕方ないなあ……早くしてね」
「はいはい、仰せのままに」

 店の奥にあるキッチンへ移動した俺の後ろを、黒ウサギは大人しくついてくる。
 いつだったか……腹が減ったと主張するあいつに適当な飯を振舞って以来、こうして定期的にやって来るようになった。
 まるで餌付けされた野良猫……と、本人に言えばどう反応するかなんて火を見るよりも明らかなため、ぐっとこらえて飲み込む。

「……それにしても、綺麗な顔の奴は黙ってても綺麗なものだね。まあ、黙ってたら、だけど」
「……」

 包丁で食材を刻みながら、その言葉に耳を傾けた。

(……綺麗)

 やめてくれ。俺は女じゃないんだ。
 綺麗なんて言葉は、似合わない。

「ランクの無い人間に、羨ましがられたりしない? その顔」
「……さあな」

 例え言われたことがあるとしても、俺の容貌のどこを羨ましく思うのか全く理解できないだろう。
 この顔のせいで『あの日』から母親に「女のようだ」と言われ続け、それからは最期まで男として扱ってはもらえなかった。

(どこが良いんだか……)

 ――……いっそのこと本当に、

「……花屋、何かあった?」
「うん? ああ、いや……何でもない。ほら、できたぞ」
「ふーん……いつにも増して変なの」

 黒ウサギは不満気に唇を尖らせたまま皿を受け取り、その上に盛られていく料理を静かに目で追う。

(……頭が痛い)

 違う、違う。俺は『綺麗』なんかじゃない。女じゃない、姉さんの代わりじゃない。
 俺は、ちゃんとここにいる。

「……っ、」

 ズキン。
 脳みそ全ての血管が破裂しかけているのではないかと錯覚するほど、大きく脈打ち痛む頭。

「本当に今日は変だよ。風邪?」

 タダ飯分の恩なのか。黒ウサギは不思議なことに、俺の前では優しくて素直な上、とても気を許してくれている。
 年上である俺に甘えてくれている、と解釈してもさすがに許されるかもしれない。

(優しい奴だな……)

 そんな事を考えながらゆっくりとそちらへ目線をやって、ひらひらと片手を振り笑って見せた。

「いや……本当に何でもない、大丈夫だ」
「……『僕』に嘘ついても無駄だって知ってるよね?」
「ああ、勿論。それよりほら、さっさと食わないと冷めるぞ」
「……そうだね」

 数秒、訝しげな目で俺を見てから、黒ウサギは手元の料理をスプーンでつつき始める。

「心配してくれてありがとうな」
「は? あんたの心配なんてしてないよ、思い上がりも甚だしいなあ、気色悪い。僕はただ、美味しいご飯を安心して食べたいだけだし」
「はいはい、そうだな。調子に乗って悪かった」
「わかればいいんだよ」

 不意に、夕陽が影を伸ばし店内を闇が覆った。

「もう夕方か」

 この国の朝や昼、夜と呼ばれる時間の長さは相変わらずバラバラで、慌てて店内の明かりをつける。
 それから、キッチンで洗い物の片付けをしていると、

「ただいまー!」

 唐突に、店の入り口でイカレウサギの大きな声が響いた。
 ちらりと黒ウサギに目をやれば「食べ終わったら帰るからお構いなく」とだけ言って、口いっぱいに料理を詰め込んでいく。
 その姿を見送ってから、入り口まで小走りで駆けてイカレウサギを出迎えた。

「おかえり、おつかいありがとうな」

 頼んでいた荷物を受け取り店の奥へ入るよう促すが、イカレウサギはその場から一歩も動こうとしない。
 どうかしたのかと問うために口を開いた時、その背後に隠れている『何か』が目に入った。

(なんだ?)

 ブルーのリボンがぴょこりと揺れる。

「あ、そうそう! 連れて来たんだ!」
「……? 連れて来た……?」
「……ほら、大丈夫だよ。おいで」

 そう言って、イカレウサギは自身の背後に隠れる『何か』へ笑いかけた。
 すると、恐る恐るといった様子で姿を現したのは……可愛い、小さな女の子。

「俺のアリスだよ! 可愛いでしょ!」
「……アリス?」

 ――……この子が、アリス。