下を向いたまま、どれくらい走り続けていただろうか。
 
「はぁっ……はぁっ……!」
 
 足を止め、呼吸を整えながら顔を上げて辺りを見渡せば、先ほど双子に出くわした森の中にいた。
 一番戻って来たくなかった場所で響くのは、

「あっ!」
「あー!」

 一番、聞きたくなかった声。
 恐る恐る目をやると、こちらを指差して立っていたのはやはりあの双子――ハンプティ・ダンプティ。相変わらず仲良さげに片手を繋いだまま、満面の笑みを浮かべて小走りで目の前にやって来た。

「ご機嫌よう、アリス! また会えたね!」
「嬉しいよ!」
「……ごきげんよう、ハンプティ・ダンプティ。私はもう二度と会いたくなかったわ……」
「悲しいこと言わないでよ!」
「そうだよ! 言わないでよ!」

 膨らませた頬を二人でぴたりとくっつけながら、横目で互いに見つめ合い「ねー!」と声を合わせて言う。少しの間、眉間に深いシワを刻んでいたかと思えば、反応に困る私を見た途端ぱあっと笑顔を咲かせた。
 情緒不安定なのかしら、と呆れ気味に心の中で呟く。

「ねえ……もしかしてアリスはさ、」
「道に迷ってるの?」
「きっとそうだ、迷ってるんだ」
「でも、アリスが迷っているのは道だけじゃないよ?」
「あ、そっか! アリスは未熟だもんね!」
 
 余計なお世話だ。
 
「この先に進みたいなら、」
「チェシャ猫に聞くといいよ!」
「チェシャ、猫……?」

 初めて耳にした名前に首を傾げると、ハンプティかダンプティか……どちらかはわからないが、片方が「そうだよ!」と大きく頷き答えてくれる。

「チェシャ猫には、この道を抜けた先で会えるよ!」
「ああ、でもアリス。気をつけて?」
「くれぐれも、気をつけて……行ってらっしゃい、大事なアリス」



 ***
 


 多分、あれは……ダンプティだったはず。
 彼が指差した小道を歩いている最中、ある事を思い出した。そうだ、先ほどの……多分、ダンプティが強調して続けた「気をつけて」の一言がどうにも引っかかるのだ。
 サタンといい、彼らといい。伝えたい事があるのなら、回りくどい物言いをせずにはっきりと言葉にすれば良いのに。
 心の中であれこれと文句を浮かべながらしばらく歩いていると、

「――……!?」

 突然、喉に冷たい物が当たり、何者かの声が降ってきた。

「はぁい。たった一人でぇ、こーんにゃ暗い所に来るにゃんてぇ、とーっても不用心だねぇ」

 のんびりと言葉を紡ぐソプラノ。同時に、目の前に一人の女性が現れた。
 紫の髪から同じ色の猫耳が生え、寝間着のように緩い服装をした、ついさっきまでそこにはいなかったはずの人物。
 その少女が尻尾を揺らしながら私の喉に当てているのは、怪しく光るナイフだった。

(殺さ、れ)
「こーうやってぇ、いきなり殺されちゃっても知らにゃいよぉ?」

 女性は人懐っこそうな犬歯の見える笑顔を浮かべるなり、ポイとナイフを投げ捨ててしまう。安堵に胸をなで下ろすと、女性に手首を掴まれた。

「な、なに……?」
「えぇー? ここに来たってことはぁ、この森から出たいんだよねぇ? いいよぉ、案内してあげるねぇ」



 ***



 体感として数十分間、黙々と二人で森の中を歩いていたが、むず痒い静寂に耐えきれなくなり、呟くように言葉を投げた。

「あの……あなたが、チェシャ猫?」
「うん、そうだよぉ。そういうキミはぁ、アリスだよねぇ」

 チェシャ猫はこちらを振り返って、花のような笑顔を浮かべる。先ほどの言動から察するに、どうやら彼女は私を殺す気は、

「あーあ……やっぱりぃ、さっき殺してあげればよかったかにゃぁ……失敗したにゃぁ……せっかくジョーカーだったのににゃぁ……」

 ないようだ……と、心の中で言いかけてやめた。気まぐれで殺さなかっただけらしい。
 ため息を吐くと同時に、私の前を歩いていたチェシャ猫は足を止め再び振り返る。

「あれぇ、あのお家ぃ。あそこに行くといいよぉ。それじゃあ、僕はこれでぇ。また遊んでねぇ、アリスー」

 最後まで不思議な猫さんだ。
 チェシャ猫が尻尾をくるりと回して煙のように姿を消した後、私は教えられた場所に向かって歩き出すのだった。