「見せ、る……? どういうこと……?」
「……そのままの意味だよ」

 エースの言葉が切れると同時に景色が一瞬で変化し、モノクロだった世界には絵の具を散らしたように色がついていく。

「!?」

 カチコチと時計の音が鳴り響き目の前に『誰か』が現れるものの、それはいつだかと同じで大きなスクリーンを通して映画を観せられている気分だった。

「……その通り。これはあくまでも私の能力によって“再放送”されているだけの『記憶』だ。私達の声は届かず、触れる事は勿論、過去に干渉する事は一切できない。アリス……何を見ても、現実から目を逸らしてはいけないよ」

 エースが指を鳴らすと映像は緩やかに動き始め、頭の中で反響していた雑音がはっきりと『声』に変化し響き始める。



 ***



 俺は長い間、汚い大人達の玩具だった。周囲は俺を『悪魔』と呼ぶ。

 目隠しをされたまま、この冷たい地下室へ閉じ込められてから何日が経つだろうか。
 特別困ることはないが、ひたすら続く静かな闇に嫌気がさしてくる。

「……」

 投獄された当初から、両腕は背中へ回されたまま手錠でしっかりと拘束され、両足には親切にも重りのついた足枷が付けられていた。
 そのイカレたアクセサリーは少し動かす度にじゃらりと冷たい音を立て、うなじの焼き印を髪が撫でるたびに痛みが走り続ける。
 ――……どうして、俺はここにいる?

『悪魔の化身め、よくも騙したな……!!』
『二度と我々人間に化けられないよう、奴隷の印を付けてやろう』

 悪魔だと?笑わせる。
 生まれつき不思議な力を持っていた俺を、散々利用したのはお前たちのくせに。

『なり損ないのジョーカーもどきめ!』

 なり損ない?
 俺が他人に化けられると知った途端、神のように崇め讃えてきた口でよくそんな事が言えるものだ。

『頼む、金ならいくらでも払う! 困ってるんだ、三日だけでいい! 俺のふりをしてくれないか!?』

 お前たちが、

『よくも騙したわね!? この悪魔!!』
『そ、そうだ! 俺に化けて妻を惑わそうだなんて、卑怯者め! 許せない……!』

 そう、願ったくせに。

「……」

 汚い欲望だらけの世界で、他人に興味を持つ事ができなかった。
 俺がした事で誰かが喜ぼうと、悲しもうと、心底どうでもいい。それでも、この力を使うだけで金が貰えて生きていけるのなら、楽なものだと思っていた。

 はじめに“その事”に気づいた大人は、きっと神の生まれ変わりなのだろうと俺をもてはやした。
 次に気づいた人間は、神の遣いに違いないと貢ぎ物をくれた。

(おれは神なんかじゃないのに、バカなやつらだな……)

 それから……自身が罪を逃れるために『代わり』を頼む男、身勝手な欲望のために依頼してくる女も山ほど現れた。
 悪意で利用されている事は気付いていたが、暇潰しにはちょうどいい。
 俺を操っているつもりの馬鹿どもの裏をかいてやる事に、少しの愉悦感を覚えた。

『こいつは悪魔だ! 野放しにしていてはいけない!!』

 ある時。さんざん金を貢いできた色狂いの神父が、俺に裏切られていると気づくや否やそう声をあげ、

『私も彼に騙されました!』
『俺もこいつに利用された!!』

 それからは、はじめからシナリオで決められていたかのようにスムーズな流れだった。

『殺しても死なないのだから、火で炙っても意味がない。未来永劫、牢に閉じ込めておこう』
『拷問するにはちょうどいいな。今ままで犯した罪の分だけ神に懺悔しろ!』

 ――……いっそ、殺してくれたならどれだけ楽か。

(拘束具さえ無ければ、こんな所とっくに……)

 誰もいない、逃げられない。当然、助けてなんてもらえない。
 俺は、嫌われ者の……偽物ジョーカーだから。

「……偽物なんかじゃないよ」

 せせらぎのように綺麗な声が、コンクリートの部屋で小さく反響する。

(ついに幻聴が聞こえるほど頭がおかしくなったか?)

 じゃらり、鎖の動く音。
 かと思えば、いとも簡単に拘束具を外され、言葉を発する暇もなく久方ぶりの光が瞼を刺した。

(……何だ? 誰だ?)
「はじめまして。僕の名前は、ジョーカー」

 いかにも気の弱そうな目の前の男はそう言って微笑み、屈んで片手を差し出してくる。

「……何しに来た? 何が目的だ?」

 警戒し睨みつける俺を見て、その男は悲しげに笑った。

「実は……僕はもう、死んだ身なんだ」
「……そうか、ご愁傷様だな」

 得体の知れない男の声は少し独特で、ひどく感情を煽ってくる。
 そんな身の内話に興味なんて微塵もない。そのはずなのに、

「僕はまだ、死ねないんだ……このままアリスを置いて逝くなんてできない」
「……未練なんて、ここでは何の意味も無い。さっさと成仏するのが身のためだぞ」

 鼻で笑う俺の目を、男の瞳が真っ直ぐ射抜く。

「あの子が……アリスが、心配なんだ」
「俺には関係のない話だ」

 どうしてこんなに、心がざわつくのかわからない。
 今まで出会った人間の俺を映す目には、どれも汚い欲望の色が浮いていた。

「……僕が死ぬ代わりに、誰か……『何にでもなれる』誰かを、彼女のそばに置いてほしい。君には、それができるんだろう?」

 なぜ、この男の緑色は――こんなに、澄んだ色をしている?
 まるで、俺を心の底から信頼しきっているかのような、綺麗な色を。

「……」
「悪魔にすがる人間なんて、ありふれた滑稽な姿は見飽きてるかもしれないけど……お願いだ、きっと君にしか頼めない。僕の魂でも、何でもあげる。四肢を切断しても、内臓を食ってくれても構わない。だから……僕の代わりに、アリスを守る『ジョーカー』になってほしい」

 ワンダーランドの奥深く。さらにその先、闇の国。
 この国の人間は、みんは俺を『悪魔』と呼ぶのに。

「……四肢をもぎ取る趣味も、内臓を食う趣味も無い」
「え? 本当に?」
「それと……一つ、訂正しておくが……俺は、悪魔じゃない」
「そうか、良かった……それなら、安心してアリスを任せられる」

 こんな花が咲くように綺麗な笑顔を、生まれて初めて見たかも知れない。
 この男だって、清廉潔白ではないだろう。現に、自身の『身勝手』を俺に押し付けている。
 だが、

(自分のためじゃなく他人のために……死んでからもここまで必死になるなんて、馬鹿な男だな)

 その『アリス』とやらにどれだけの価値があるのか知らないが、その笑顔に相応しいだけの理由はあるのだろうと思った。

「改めてお願いだ。僕が、君の代わりに牢に入る。だから……今日から『僕』になって、アリスを守る“切り札”になってほしい」
「……頭の悪い奴だな」
「ははっ、褒めてくれてありがとう」



 ***



「……ようこそ、ジョーカー」

 男――ジョーカーと名乗ったそいつの指差した方向には、出口とは別の扉が一つ用意されていて、招かれるように足を踏み入れる。
 瞬間、頭の中で聞き覚えのない男の声が響き俺を歓迎した。

(……俺は、何をすればいい?)

 遅れて押し寄せる、大きな違和感と罪悪感。
 俺が、ここにいてもいいのか?自由になって、いいのか?

(アリスとやらは、どこにいるんだ?)
「……ああ、すまない。君の役割は“そう”だったな。案内しよう」

 再度同じ男の声が耳に届くと、周囲の景色がモノクロへ変化した。
 かと思えば、まばたき一つの時間で世界に色が戻ってくる。そこで初めて気がついた。

(……ここは、どこだ?)

 振り返っても扉はなく、見知らぬ世界の森の中。
 周囲を見渡せば、少し離れた場所に小さな少女と黒いウサギの耳を頭につけたおかしな男が立っていた。

(誰だ? アリスはどこに、)

 不意に、俺の存在に気づいたらしい少女が小走りで駆け寄り、無邪気な笑みを向けてくる。

「こんにちは!」
「……っ!?」

 どう対応すればいいのか迷っている間に、その少女は紅葉のように小さな手で俺の腕をそっと掴み、先ほどまで一緒にいた異様な男が少女を呼んだ。

「アリス! 危ないよ!」
「――!!」

 アリス。

「はじめまして。おにいさんは、だあれ?」

 澄み渡った空のような色の瞳が、俺を映してきらきらと輝く。
 ああ、この目は……さっき見た、あの男と同じだ。

(正体のわからない俺を、はじめから信頼しきっている馬鹿な目)

 この少女が、アリス。俺の……守るべき、存在。

「アリス! 危ないってば!」

 絶えずにこにこと笑顔を向けてくるアリスを、急ぎ足でこちらへ来たウサギ男が慌てたように抱き上げて、赤い瞳で俺を睨みつけてくる。

(何だ? こいつ……)

 そして、気がついてしまった。

(……アリス?)

 ちらりと覗いたうなじに見える、その痣は誰に付けられたのか。
 ああ、そういえば。白い頬が、ぶたれたように腫れていた。
 それらが“他人につけられたものだ”と……自分で負った傷との違いを、俺はよく知っている。

(どういう、ことだ……?)

 アリスを守ってほしいと言った、あの男。
 嫌でも脳裏に浮かぶ連想が、こびりついて離れない。

「……君、ジョーカーでしょ?」
「……あ、ああ。そうだ……」
「ははっ、やっぱり」

 ウサギ男の問いに頷いた途端、アリスの表情が豹変した。
 親の仇でも見るかのような、鋭い目。憎しみ、恨み、悲しみ。雰囲気からひしひしと伝わってくる、負の感情。
 赤い瞳が三日月型を描き、ウサギ男は小さく笑う。同時に、叩きつけるようにアリスは叫んだ。

「ジョーカーは、せかいでひとりだけだもん! あなたなんかきらい! だいきらい!」
「……アリス?」
「アリスのなまえをよばないで! ちがう、ちがう! おにいさまじゃない! あなたなんか、いらない!」

 ジョーカーは、世界で一人だけ。
 その言葉は、

(……あの男が死んだ事を、)

 目の前に突きつけられた現実を、必死で否定しているように聞こえた。

(……何をした?)

 神様とやらがいるのなら、俺の問いに答えてみろ。

(この子がお前に、いったい何をしたというんだ?)

 こんな小さな体に背負わなければいけないほどの罪を犯したのか?
 殴られなければいけない理由が……大切な存在を奪われる必要が、あるというのか?

(……よくわかった)

 俺が『何』からこの少女――アリスを守らなければいけないのか、十分理解できた。
 虫唾が走る。役にも立たない神の決めた運命のシナリオなんて、

(俺が邪魔してやる)

 神罰なら、俺がいくらでも受けてやろう。
 俺はあいつの“代わり”なのだから。