ある所に、一人の娼婦が住んでいた。
 艶やかな黒髪ときめ細やかな肌、花も恥じらうほどの美貌に、無駄な肉付きのない美しい身体。
 その女が生まれ落ちた家はとても貧しく、毎日食べ物にありつくのも一苦労だったが、容姿に恵まれていたのだけが唯一の救いだった。

 女は成人して家を出ると同時に、自身が生きていくため――金を稼ぐために、娼婦の道へ進んだ。
 毎晩、日が落ちると共に街へ繰り出し手当たり次第に男を誘い、体を売って生活費を稼ぐ。
 それが、その女の生きる方法だった。

 しかしある時、転機が訪れる。
 見目麗しい娼婦の噂を耳にしたとある男が彼女の前に現れ、そのあまりの美しさに一目で恋に落ちたのだった。

「なんて、美しい……失礼を承知で伺いますが、お名前は? ご結婚はされているのですが? その……良かったら、お茶でも飲みながら、お話ししませんか?」

 そして娼婦も、他の男と違い自身を『普通の女性』として扱うその男に、生まれて初めての恋をした。



 ***



 お互いに深く愛しあった二人は周囲の強い反対を押し切り、晴れて夫婦となる。
 ――……その日を境に、元・娼婦の人生は大きく変わっていくのだった。

 広い庭付きの煌びやかな豪邸と、毎食テーブルに並ぶ豪勢な料理。クローゼットに溢れかえる服、使い切れない化粧品。そして、身の回りの世話をしてくれるたくさんの使用人達。

 娼婦に恋をした男は、歴史ある家系の貴族だったのだ。
 
 まさに玉の輿、一発逆転、シンデレラストーリー。世間から蔑みの目で見られる『娼婦』から、羨望の眼差しを向けられる『貴族の婦人』となったその女。

(権力の後ろ盾を得たのだから、これからはどんな事をしても許される……!! 欲しいものは、全部手に入る!!)

 だが……裕福な暮らしに欲が湧き続けた結果、女はただひたすら我が儘で傲慢な歪んだ性格へ変貌し、美しかった身体や容貌も心の内を表すかのようにすっかり醜くくなり、そんな妻に夫は呆れて愛想を尽かした。

「君の癇癪でメイドを辞職へ追い込んだのはこれで何度目だ? 頼むからいい加減にしてくれ……」

 妻への愛情を失いつつある夫。

「ごめんなさい! もうしないわ、約束する。だから許して? お願い、愛してるの……世界中の誰より、あなたを愛しているわ」

 それでも、元・娼婦の妻は夫に愛されるため一生懸命尽くし続けた。



 ***



 ある日の春、妻は夫の子を身ごもる。

「本当か!? ははっ、よくやった! ありがとう、嬉しいよ!」

 この時ばかりは夫も全身全霊で喜びを表し、妻に改めて「愛しているよ」と口付けたのだった。
 関係の修復はまだ可能なのだと、夫婦は共に強い希望を抱いた。
 だが……子供が産まれてから一年経ち、髪も少し生え揃って簡単な言葉を話すようになった頃。
 夫の顔から、笑顔が消えた。



 ***



 夫婦にとって一人娘であるはずの“その子”は、夫にも妻にも……全く、似ていない。
 容貌に夫婦それぞれの面影こそあれど――きらめくブロンドの髪、空のように透き通った水色の瞳と、雪のように白い肌のその娘。
 対して両親は――漆黒の髪と紫色の瞳、肌はお世辞にも色白だとは言えず……はじめから二人の結婚を反対していた夫の親族や友人知人は、まるで鬼の首でも取ったかのように口を揃えて妻を非難した。

「そら見たことか! 結局、汚い売女は結婚した程度じゃ変わらないんだ!」
「どうせまた体を売って、名も知れぬ男の子供を身ごもったのだろうよ。汚らわしい売女め!」
「違います……! 断じて違います! 私は、結婚してから一度も体を売ったことなどありません! 夫を愛しているからです!」
「黙れ売女! 何を咥えたかもわからない汚い口で、適当な嘘を喚き散らすな!」
「いくら息子の願いとは言え、お前のような女を娶ってしまったことは一族の歴史に残る大きな傷だ!」
「そん、な……そんな……信じてください、お願いします……」

 妻の無実を誰一人として信じることはなく、美しいと褒め称えられて蝶よ花よと大切に可愛がられるはずだった『娘』は――その日から、誰にも愛されなくなった。



 ***



 しかし、夫だけは娘に情けをかける。

「真偽はさておき……娘に罪はない。この子を責めるのは、可哀想だろう」

 夫は“可哀想な娘”を受け入れたが、しかしそれは自分の娘だからという理由ではなく、ただ世間体を気にしての行為で、

「いいかい? 私のことは『旦那様』と呼ぶんだよ」
「うん……」
「ちゃんと『いい子』にしていれば君の居場所は与えてあげるし、生活に苦労することはない。わかったね?」
「……うん」

 彼は“最期まで”娘に『父』と呼ばせなかった。



 ***



 誰にも愛されない一人ぼっちの女の子はある日、楽しい遊びを思いつく。
 内容はただ、数枚のトランプに役割と武器・強さの順を決めて戦わせるゲーム。

「ジョーカーはなんにでもなれて、くろウサギはハートのエース、とけいやさんはダイヤのキング。ハートのクイーンは──……」

 妄想の世界に浸っている間だけが、その子にとって安らぎの時間だった。

「みんな、やくも、すうじも……かわっちゃだめだよ?」



 ***



 夫にとって一番の悩みは、一族の跡取りについてだった。間男との子供という疑惑の残る娘に継がせるなど、誰も許可しないだろう。

(それなら、“あの子”を上手く使えば……)

 誰にも明かしていなかったが……夫は昔、交際関係にあった女性との間で子供を一人もうけていた。
 夫によく似た容姿で、綺麗な黒髪と宝石のような緑色の瞳が目を惹く男の子。

 しかし……夫と血が繋がっているとは言え、今さら妾の子を一族の息子として公表するわけにはいかない。
 それこそ、親族間で大問題になるのは目に見えていた。

 そこで、夫は考える。
 大きな問題を抱える現妻のみ他の女に取り替えて、娘には本当の事は何も伝えずに息子を紹介し、二人を結婚させよう。
 そして、息子が跡を継げばいい。

(なんだ、簡単なことじゃないか)

 現妻と離婚することも、息子が妾の子であることも、二人は異母兄妹であることも。
 金を使えば、簡単に隠蔽できる。

「いいかい、二人とも。許婚として、仲良くするんだよ」
「はじめまして、お父様から話は聞いたよ。よろしくね」
「……よ、よろしく……おねがい、します……」

 それが、間違いだった。



 ***



 一族の子として、日々幸せになっていく娘。
 貴族の妻という肩書きも目の眩む宝石も有り余る金も、愛する人も愛してくれる人も、何もかもをなくした母。

 母は我が子に恨みを向け、憎しみの対象とし、そして……ついには、暴行を加え始める。

「お前のせいで! お前の……っ!!」
「ごめ、んな、さ……っ! いたっ、いたいっ! ごめんなさ、い……!!」

 腹を蹴り、顔を殴り、物を投げつけ……酷い時には、ほうきやフライパンで殴打し、両手で首を絞め、浴槽に顔を沈めた。

 痣や傷は日々増え続け、消えることがない。
 比例して笑顔が失われていく娘を、夫は気付いていながら見て見ぬ振りだった。
 小さな娘は、ただ願う。

「……おねがい、だれか……アリスを、あいして」