アリスも時計屋も……誰も、いなくなった公園。
 そこに一人で取り残された帽子屋は、アリスがふらふらと歩き去って行った方角をその場に立ち尽くしたままぼんやりと眺めていた。



 ***



「……」

 まるで、自分は今ここに存在しないのではないかという錯覚に陥る。
 あの時、俺の声は――アリスに届いていなかった。

(……俺は、どうすれば良かった?)

 無理矢理にでも目を覆い隠してやれば良かったのか。それとも、わざとらしく他の話題を振って気を紛らわせてやるべきだったのか。
 いや、それよりも前に……アリスが『あんな事』を言うより先に、多少強引だろうと口を塞いで妨害すれば良かったのだろうか。

(アリス……)

 考えれば考えるほど、後悔ばかりが押し寄せてわからなくなった。

(あの時だって、)

 なあ、アリス。時計屋が消えた時、俺はどうするべきだったと思う?
 優しい言葉をかけて慰める?抱きしめて頭を撫でる?
 どれが正しかった?

(……わからない)
「迷うほどに『答え』への道は遠のくものだと、相場は決まっている……帽子屋、君の判断は正しかった」

 珍しくこちらの世界に姿を現したエースに目をやれば、延々と自己嫌悪の巡る俺の“記憶を見た”らしいそいつは喉を鳴らして小さく笑う。

「あの時、私を呼んだだろう? とても適切な判断だ」
「……そうか」

 あの時、とは。
 アリスが虚ろな目をしてふらふらとどこかへ向かい始めた時のこと。
 俺はあの状態のアリスに何もしてやれないと判断し、心の中でエースを呼んだ。それが唯一俺にできた事で、アリスに何も出来なかった事だと思う。

「うん? 後悔しているのか? それなら簡単な話だよ、帽子屋。素直になればいいだけだ」
「うるさい、黙れ」

 必要以上に心へ踏み込むエースを睨みつけ、わざと大きな音を立てながら紅茶をすすった。
 しかし、当然ながらそんなことでは全くひるむ様子のない公爵は、愉快そうに口元に弧を描いて再び言葉を紡ぐ。
 
「アリスのことが好きなのに、自分は素直に伝えられない。だからこそ、アリスに優しく寄り添って『愛』を口にする者を毛嫌いしている……幼稚だな」
「……おい、」
「ああ……そうか、親しい者や気に入られている対象もだったな。それにしても花屋を毛嫌いしすぎだと思うが……アリスから見た帽子屋の印象が下がるだけだと思うぞ? 天邪鬼にも限度がある」
「黙れと言ったのが聞こえなかったか」

 ふわりと宙に浮き、顎に片手を置いて自分を納得させるように二、三度頷くエース。
 いい加減に我慢の限界がきて銃口を向けるが、

「ははっ……『恋』とは、人を短絡的にさせるもののようだ」

 余裕ぶってわざとらしく肩をすくめやがった様子を見て、何の躊躇いもなく引き金を引いた。
 しかし、雲のようにゆったりと横へ移動したエースのせいで、弾はわずかに狙いを逸れ彼方へ消えていく。
 舌打ちを一つして再度あいつの眉間を狙って構えると、エースは苦笑しつつ鳥のような身軽さで地に足を着いた。

「帽子屋、落ち着いてくれ。まったく……その姿だと、いつもの百割り増しで短気だな」
「悪かったな……きちんと“子供のままでいられたら”こんなにイライラせず済むんだ。俺だって不本意なんだよ」
「いいや、悪いとは言っていない。怯えられなくて良かったじゃないか」
「……」

 拳銃をシルクハットに戻して被り直すと、エースは改まったように真剣な表情を浮かべる。

「……本物のジョーカーは、もうすぐ見つかるだろう。『彼』は今、アリスの側にいるようだ」
「……そうか」

 それは、この『ゲーム』の終わりを告げる合図だった。
 結局、アリスの望んだ『終わり方』をしてしまうのだろうか。生きたいとは願ってくれないのか?アリス。

(俺は……独りよがりで、どこまでも醜いな……)

 他の方法でアリスを救ってやりたい、なんて簡単に思うばかりで行動には移せない。口先すら綺麗に取り繕えず、どこまでも愚かで滑稽な存在。
 ああ……これだから、大人になんてなりたくないんだ。

「……心配しなくても、きっと『ジョーカー』がアリスを救ってくれるだろう」
「そうだろうな」
「それに……帽子屋。アリスは、ちゃんと君に救われているよ」
「!!」

 俺なんかが、アリスの役に立てているとは思えない。
 しかし、エースの微笑みがその話は決して嘘ではないと物語っていて……情けない事に涙がこみ上げ、同時にひどく安堵する。

「……よかった」
「ああ、それから……時計屋なら、ああいう時はアリスを強く抱きしめて、優しく頭を撫でながら愛の言葉を囁いていただろうな」

 わざとらしい演技と共に余計な台詞を付け足しやがったエースに向けて、また一発弾丸をくれてやった。