「――……アリス、見てはいけない」
「……っ、アリス!!」

 エースと帽子屋さんの声が重なった。
 帽子屋さんが「見るな!!」と焦った様子で言葉を繋げた瞬間、目の前にいる時計屋さんの体からは小さな光の粒子がふわふわと出始め、それが空へ舞い上がると同時に彼の体はパズルのように少しずつ消えていく。

「……どう、なって……」

 今、何が起きているのか。私の脳はうまく処理することができなかった。

「……ちょっと失敗したかな……」

 欠けていく自分の手のひらに目線を落とし、どこか困ったように小さく笑う時計屋さん。

「と、時計屋、さん……? ねえ、これは……何の、手品なの……? あっ、そ、それとも、私をからかってるの……?」

 精一杯の笑顔を顔に貼り付けて、時計屋さんの腕に片手を伸ばす。
 けれど、それはいつだかのように彼の体をすり抜けてしまい触れることができなかった。

「……え?」
「……」

 彼は今、目の前に確かに存在しているというのに。
 今度は時計屋さんを抱きしめようと試みたけれど、『あの時』と同じで蜃気楼のようにすり抜けた両腕には何も収まらない。

(……違う……違う違う、違う! そんなはずない!!)

 ねえ、時計屋さん。これは夢なんでしょう?あなたまで消えてしまうなんて、きっと悪い夢なのよ。
 今頃、現実の私は花屋さんのお店で泣き疲れて眠ってしまっているに違いないわ。
 そうでなければ、こんな事――……。

「は、やく……は、早く、目を……アリス!! 早く、目を覚ましなさい……っ!!」

 視界を覆う膜のせいで、時計屋さんの姿が歪んで見える。
 拭っても拭っても溢れ出す涙が止まることはなく、ただその場に座り込み両手で自分の頭を殴り付けながら「目を覚ませ」と何度も繰り返した。

「……やっぱり……駄目だな、俺は。今も昔も……役に立たない、駄目な奴だ……結局、俺だけの力じゃアリスを救えない。帽子屋に偉そうなことを言ったくせに……俺だって、アリスを泣かせてるじゃないか……」

 まるで自分を責めているかのように、時計屋さんは今にも泣きだしそうな顔をしてぽつりと言葉を落とす。

(違う、違う……! そんなことない……! 時計屋さんは、駄目な奴なんかじゃ……役に立たない人なんかじゃない……!)

 彼は俯いて何か考えるそぶりをしたかと思えば、ぱっと帽子屋さんの方を見て人差し指を向けた。

「帽子屋。大親友のお前に、アリスは任せた。俺が言うのもなんだけど……泣かせるなよ。一生に一度のお願いだ」
「……誰が大親友だ……だからエースが忠告しただろ、馬鹿野郎が」

 任せた、って?
 ねえ、それは……どういう意味なの?

「い、や……いや……時計屋さん、消えないで……置いていかないで……お願い、時計屋さん……どこにも行かないで……っ!」

 どれだけあがいても、触れることは叶わない時計屋さん。
 すると彼は、目線の高さを合わせるように片膝をついて屈み、微笑みながら「……ごめんね、アリス」と呟いて私の頬に両手をそえた。

(違うの、時計屋さん。いらないの……)

 謝罪の言葉なんていらない。私はそんなもの欲しくない。たった一つ、願いを叶えてくれたら、それだけでいいの。

「……最期まで何もできなくて、ごめん」
「ちが、う……違う……っ! いらない! いいの! 時計屋さん、謝らないでいいの! もう、何もいらない……私、もう何も欲しがらないから……っ! だから、お願い……時計屋さん、消えないで……どこにも行かないで、お願い……いい子にするから……」

 歪んだ視界の中で、彼のふっと微笑む顔が見えた。瞬間、カチリと時間の針が進むような音が頭の中で響いて、光の粒子は空中で停止し伸ばした手が時計屋さんの体を掴む。

「!!」
「……」

 それと同時に時計屋さんの顔が近づき、彼の隻眼と目線が交わったことを認識した時には、唇に触れるだけの口付けが落とされていた。

「……アリスは、今も昔もずっと『いい子』だ」
「……けい、や、さ、」
「アリス、大好きだよ。幸せになってね」

 初めて見る、満面の笑顔。
 時計屋さんがぽんと私の頭を撫でて、まばたきを一つしたわずかな時間で――彼の体は、目の前から完全に消失していた。

「あ……い、いや…………と、時計屋さん……どこ……?」

 時計屋さん時計屋さん時計屋さん。

(今、いったい何が起きたの?)

 時計屋さんが消えた?いいえ、嘘よ。そんなこと嘘に決まっているわ。
 嘘よ、違う違う。大丈夫。きっとただの悪い夢よ、そうだわ。
 ああ、それとも幻覚を見てしまったのかしら?そうね、きっとそうよ。時計屋さんが消えてしまうことを恐れるあまりに悪夢のような幻覚を見てしまったのね、そうに違いないわ。
 だから大丈夫。時計屋さんは消えたりしていない。大丈夫、大丈夫。

「アリス……」

 帽子屋さんが心配そうな目で私を見ていることは、どこか他人事のように第三者的思考で認識できたけれど、『私』はふらふらとおぼつかない足取りで歩き出す。

(悪い夢よ……)

 時計屋さんの家に帰ってみれば、きっと彼はそこにいるのだと考えた。
 いつものように、ソファに腰掛けて気怠げに紅茶を飲みながらジャックを適当にあしらって、そして、

「夢なのよ……夢……」

 私が玄関の扉をくぐれば、それを見て優しく微笑みながら「おかえり」と言ってくれる。
 あともう少し、もう少し頑張って歩けば会えるに違いない。

「……夢よ、アリス……ゆめだから、だいじょうぶ……ゆめ、だから……」

 薄暗い森の道中で突然足に力が入らなくなり、その場にへたり込む。
 かたく目を瞑り痛む頭を両手で抱えると、先ほど目にした光景の一部がビデオテープのように瞼の裏で延々と繰り返され、みっともなく叫んで暴れだしたい衝動に駆られた。

(くるしい、くるしい……くるしいよ、たすけて。だれか、アリスをたすけて。おねがい……たすけにきて、とけいやさん)
「……時計屋は、もういないよ」

 不意に、低い声が降ってくる。
 目を開いて勢いよく顔を上げれば、目の前にはモノクロの世界が広がっていた。