「ただいま……」
「アリス! おかえり!」

 家の前まで花屋さんに送ってもらい、沈んだ気分のまま大量の荷物を引きずって玄関をくぐり中へ入ると、久々に聞く声が鼓膜を震わせる。

(この声は……)

 足元に落としていた目線を上げてそちらを見れば、燃え尽きたようにソファでうなだれている時計屋さんの真隣にジャックが座っていた。

「やっぱり出かけてたんだな! おかえり!」

 相変わらずにこにこと笑みを絶やさないジャック。
 その右手は時計屋さんの肩を抱いているのだが、チョコチップが無くなったという目の前の事実にひたすら絶望しているらしい時計屋さんは、大人しくなすがままになっている……かと思えば、

「時計屋さん、お待たせ。はい、これ」

 目の前にチョコチップを差し出した瞬間、ものすごい速さで袋を開けて一心不乱に中身を口へ運び、「暑苦しい」と言いながら両手でジャックを突き飛ばしてしまう。

「……ありがとう、アリス。すごく助かった」
「どういたしまして」

 嬉しそうに微笑みを向けてくれる時計屋さんに対して無理矢理つくった笑顔を見せると、彼の隻眼はどこか心配そうな色を滲ませて揺らいだ。

「……」

 そして、数秒間こちらの顔を静かに見つめてきた後、躊躇いがちに伸ばされた彼の右手が私の髪を優しく撫でる。

「……アリス、どうした? 何かあった……?」
「……っ!」

 やめて、優しくしないで。

(だめ、)

 途端に視界が歪み始め、気づいた時には溢れ出した涙が頬を濡らしていた。
 余計な心配をかけたくないという理性だけではせき止めることができず、涙腺が壊れてしまったかのように次から次へと雫が落ちていく。

(早く、泣き止まなきゃ)

 泣いちゃだめだ、早く止まれ。止まれ……泣いたりなんかしたら、

『泣くんじゃないわよ!! 鬱陶しい!!』

 突然、“誰か”の声が頭の中で大きく響いた。

「ひっ……!」

 時計屋さんでもジャックでも、エースの声でもない。
 違う。これは……この声は、

「あ、あっ……あ、ご、ごめ……ご、ごめんな、さ、い……ごめんなさい……っ!」
「……アリス?」

 怖い、こわい。

「ごめんなさ、い……! ご、ごめんなさい……!」

 後ずさってその場に座り込んだまま両手で頭を庇い、ひたすら「ごめんなさい」と繰り返す私を、時計屋さんは心配そうな表情で見つめている。

(どうしよう。ないたから、おこられる)

 おもむろに、ジャックが立ち上がりこちらへ歩み寄ってくるのがわかった。
 彼はがたがたと震える私を黙って見下ろしていたかと思えば、目線の高さを合わせるように屈んで私の後頭部を片手で掴み、ぐいと自分の胸元へ押し付ける。
 そのまま、ジャックは空いたもう片方の手で私の腰を抱き寄せた。

「アリス」
「ご、ごめんなさ、い……ごめんな、さい……」
「アリス。意味も無いのに謝ったって、鬱陶しいだけだぜ?」
「おい、ジャック!!」

 嘲笑混じりの彼の声と、時計屋さんの怒声が耳に届く。
 ジャックは時計屋さんを無視して私の顎を指で持ち上げ、強引に目線を交差させた。
 笑顔の消えたジャックが、怖い。

「なあ、アリス……意味の無い『ごめんなさい』を何回繰り返したって、何も解決しない……そんな事、アリスが一番よく知ってるはずだぜ?」

 指の背面でするりと私の頬を撫で、暗示のように囁いてくる。

「さんざん教わっただろ? アリスの、大嫌いな……お母さんに」

 お母さん。

「い、や……っ!!」

 ジャックの体を両腕でおしのけ、なかば壁を這うようにして立ち上がった。

(お母さん)

 それが誰だったのか思い出せないのに、ただただ――骨の芯まで震えるほど、怖くてたまらない。

「アリス……! 待っ、」
「――っ!」

 時計屋さんが伸ばした手を振り払い、無我夢中で客室へ走る。
 誰も追ってこないことを確認してから力任せに扉を閉めて施錠し、靴を履いたままベッドへ倒れ込み赤ん坊のように声を上げて泣いた。
 お母さん、おかあさん。

「おかあさん……っ」

 おかあさん、おねがい。アリスを――……。



 ***



「アリス……」

 不安げな面持ちで、エースは宙に浮いた時計を見つめている。
 アリスが泣きながらベッドに倒れこむ様子を見送ってから、彼は眉間に深くしわを刻み頭を抱えた。

「歪みが生まれ始めている……もう、無理なのか……? 私の力では、これ以上……」
「やあ、エース」

 突如、耳に届いた自分以外の声に驚いてエースは勢いよく振り返る。
 にこにこと人の良さそうな笑顔を浮かべ片手を振る黒ウサギが目に入った途端、彼は苦虫でも噛み潰したかのように顔を歪ませた。
 そのまま、ふわりと浮かび上がって逃げ出そうとしたエースの足首を、黒ウサギは片手で掴んで阻止する。

「傷つくなー逃げなくてもいいじゃんか」
「き、貴様……! どうやって私の世界に入ってきた!? 離せ!!」

 黒ウサギは、じたばたと暴れるエースの服を引っ張り力ずくで自分の元まで降ろすと、彼の腰に回されているベルトを片手で握り締めた。
 エースはその手をどうにかして引き剥がそうと足掻くものの、黒ウサギはそんな彼を気にする様子もなく貼り付けた笑顔を浮かべたまま言葉を続ける。

「ジョーカーくん、随分と焦ってる……いや、違うか。心配でたまらないんだね。まあ、いくらなんでも干渉しすぎだと思うけど……おかげで、アリスの記憶が蘇りかけてる」
「……っ、言われなくてもそんなことは“私が”一番よく分かっている! 離せ!」
「……ねえ、エース」

 黒ウサギがネクタイを掴んで引っ張り寄せ息のかかる距離まで顔を近づけると、エースは「ひっ」となんとも情けない声をあげた。
 楽しそうに喉を鳴らして笑う黒ウサギをエースは涙の滲む目できっと睨みつけてやるが、精一杯の威嚇も嘲笑で受け流され無駄に終わる。

「エース……『優しくて親身な公爵殿』も、そろそろ危ないんじゃないの? 存在は無くならないと言えど……色々、さ?」
「……っ、歪みの修正は……私には、できない。一度生まれた違和感を消すことは、私には……どうしようも、」
「ははっ、なに弱気になってるの? それなら……“また”記憶を消してあげればいいだけの話でしょ?」

 笑顔で投げられた言葉に、エースは表情を曇らせ俯いた。

「……確かな『違和感』が残っている限り、記憶は蘇る。何度消しても、どれだけ改変を加えても……些細なきっかけで、何度でも……正しい『出来事』を、少しずつ思い出してしまう。堂々巡りだ、意味がない……それを、私も……黒ウサギ、貴様も。あの日、目の前で“見たのだから”知っているだろう?」
「……まあ、ね。僕も……白ウサギも。そんな事、よく知ってるよ」

 黒ウサギが体を離すと、エースは安堵した様子で息を吐く。それを見て黒ウサギがぴくりと兎の耳を動かせば、彼は短く唸るような声を出して距離をとった。

「き、気持ち悪い……!」
「情けないなー」
「ウサギは嫌いなんだ! そんな、長い耳なんて……怖い……」

 口元を片手で覆い隠し、心底嫌そうに眉をひそめるエース。
 黒ウサギはといえば、今にも嘔吐しそうな顔色のエースに再び顔を近づけ、片手で顎を掴み低く言葉を紡ぐ。

「……エースがちゃんとしてくれないと、傷ついて泣く事になるのはアリスだよ」
「うるさい……っ! そんな事、私はわかっていると言っているだろう……!!」
「ははっ、そうだね……この馬鹿げたゲームも、そろそろ終わりそうだし……全てが分かった時、アリスはどうなっちゃうんだろうね?」
「……っ、」

 黙ったまま何も言わないエースから手を離して背を向け、「またね」と言い残して去ろうとした黒ウサギの片腕を、彼は静かに掴んで引き止めた。

「……なに?」
「……アリスが、傷つかずに済む方法が見つからないんだ……『真実』を知れば、『現実』を思い出せば……必ず、深く傷ついて泣くに決まっている。その時、私は……私はきっと、“また”何もできない……」
「……できるよ。僕には無理でも、エースとジョーカーくんにならできる事がある……エースにしか、できない事も。必ずある」

 縋り付くように腕を掴むエースの手を黒ウサギがちらりと見た途端、エースは「うげっ!」と鳴いて手を離し大げさなほど距離をとる。
 その様に小さく笑い黒ウサギが耳をぴゅるりと動かせば、エースの顔は一瞬で青くなった。

「動かすんじゃない……」
「触る?」
「いらん!」

 間髪入れずに拒否するエースが面白くて仕方がないと言いたげに黒ウサギがからから笑うと、エースはしかめっ面で「さっさと帰れ!」と声を荒げる。

「はいはい、また来るね」
「もう来るな!」



 ***



 アリスが傷つかない、泣かない方法。
 エースは「ない」と言っていたけれど、

「それなら、いっそのこと……泣き顔を見る前に、殺しちゃえばいいだけなのに」

 とても簡単な話だと思う。
 そうすれば、ハッピーエンド。来世にご期待。
 元々それがこのくだらないゲームの目的だったのだから、何の問題もないはずだ。

「アリスのことは、殺してあげればいいんだよ」

 そう……本人が望んだように。