「アリス……サタンとは、あまり親しくするな」

 いつもはポーカーフェイスでいることが多いエース。それなのに今日は、片手で私の腕を掴みとても切羽詰まった様子で眉を寄せている。
 じわりと力の込められる彼の手で、『何か』に対してひどく焦りを覚えているらしいことだけは察しがついた。

「……エース、痛いわ……」
「あ……」

 エースは「すまない……」と弱々しく呟き手を離してくれたがその顔はなぜだかひどく悲しげで、見ている私まで気分が落ち込んでしまう。
 心を読んでそれに気がついたのか、ふわりと宙に浮いて私から距離を取り少し引きつった笑顔を向けてくる彼に、心がズキリと音を立てた。

「……なぜ、サタンと親しくしない方が良いの?」

 私は彼と仲良くする気なんて更々ないわよ?と心の中で付け足せば、彼は不満気に眉をひそめる。

(エースの百面相……今日は珍しいものが見られる日ね)

 彼にばれないよう小さく笑うが、どうにもそんな呑気なことを言っている場合ではなかったようだ。

「……っ!」

 しびれを切らしたような顔で宙を歩いてそばに来たエースは、再び私の腕を掴んで力強く引き寄せ自身共々ふわりと浮かび上がると、痛みを訴える私を無視して吐き捨てるように言葉を紡ぐ。

「親しくしているじゃないか」
「だから……私は、そんなつもりじゃ」
「アリス!」

 急に声を荒げたエースに驚き、肩がびくりと大きく跳ねた。

「……っ、」
(あ……)

 また、泣きそうな顔。
 何も言えなくなってしまった私の体を、エースは力強く抱きしめる。

「あの時……現にアリスは、奴に懐かしさを覚えてしまっていたではないか……このままでは……私では、守りきれなくなってしまう……」
「あ、あのっ……エース? どうしたの?」
「アリス、頼む……お願いだから、サタンにだけは近づきすぎるな……」

 お願いだからと繰り返すその声は震えていて、まるでエースは見えない何かに怯えているかのようだった。
 大きな体を抱きしめ返し、小さな子供をあやす気分で彼の背中を優しく撫でていると、少しだけ安堵した様子でようやく表情を和らげる。

「エース、今日は本当にどうしたの……?」
「……真実なんて、全て……いつだって、残酷なものでしかない」
「え?」

 エースは私の肩に顔を埋めたまま、ぼそりとそんな言葉を落とした。
 わずかに息苦しさを覚えるほど強く抱きしめられているというのに全く嫌ではなくて、むしろこのまま離さないでほしいとすら思ってしまう。

「私は……私はもう、アリスに傷ついてほしくない……また、アリスの傷ついた顔を……あんな顔を見るのは、見ているだけで何もできない日々を送るのは、もう嫌なんだ……このまま……今度はずっと、何も知らず、全て思い出せないまま……この世界で、幸せになってほしい……お願いだ、アリス……」
「……どうして、」

 どうして、そんなことを言うの?どうして、貴方がそんな顔をするの?
 言いたいことも、聞きたいこともたくさんあるのに……上手く考えがまとまらず、開きかけた口を閉じて言葉を飲み込んだ。

「……」

 エースは私から体を離すと、今にも泣きだしそうな表情で静かに私を見つめる。

(ねえ、エース……泣かないで?)

 彼に向かって手を伸ばした瞬間にモノクロの世界がパリンと弾け、見慣れた室内の景色に色がついた。

「……エース……どうして、」

 あんなに、傷ついているような顔をしていたの?
 無意識にこぼれ落ちていた涙が頬を伝い落ち、真っ白いベッドシーツに染みを作っていた。



 ***



 とても久しぶりに、夢を見た。

「アリス」

 綺麗に整備の行き届いた広いお庭。昼下がりにその中央で野花を摘んでいると、少し離れた場所から『あの人』が私の名前を呼び、手を振りながら小走りでこちらにやって来る。

「お兄ちゃま!」

 まだ幼い私は勢い良く立ち上がり、手に持っていた花もそのままにあの人の元へ駆け寄った。
 そんな私の小さな体を両腕で抱きとめて優しく頭を撫でながら、風で花が舞うような微笑みを浮かべる彼。

「お花を摘んでいたの?」
「うん!」
「一人で遊べて、アリスは偉いね」
「えへへっ……お兄ちゃまもきて! こっち!」

 彼の大きな手を掴み、先ほどいた場所までぐいぐいと引っ張りながら歩いて行く。
 目的地に到着し、いそいそと靴を脱いでその場に正座したまま、おままごとのように「どうぞ、おすわりくださいな」と笑えば、あの人も「では失礼して」と笑顔を返してくれた。
 そこにはたしかに、二人だけの穏やかな時間が流れている。

「……綺麗だね、アリス」

 花を一輪摘んだ彼はそう言って私の髪に飾り付け、絶えない微笑みを浮かべたまま癖のついた私の髪を優しく撫でた。
 思わず照れて俯けば、あの人はからからと声を出して楽しげに笑う。
 そのたびにさらりと揺れる綺麗な髪を、私はただ羨ましく思いながら眺めていたのだ。

「アリス!」

 突然、のどかな空間で響き渡った怒声に幸せな世界の崩れ落ちる音がする。勢いよく振り返れば、いつの間にか目の前に大人の女性が立っていた。

(……誰?)

 今の『私』にはわからない。けれど、幼い私にとってはよく知った人物らしく、寒くもないというのに小さな体はかたかたと震え始めた。
 小さな両手に持っていた花をぎゅっと握り締めてしまうものだから、色とりどりの花びらははらはらと散っていく。『あの人』はと言えば、先ほどとは打って変わって凍りついたような無表情で大人の女性を見ていた。

「アリス! ――に、さようならしなさい!」
(……?)

 誰、に?
 音声がそこだけ切り取られてしまったかのように名前が聞き取れない。

「――お、にい、さま……さ、さよう、なら」

 震える声を必死に絞り出す幼い私と、一礼してから無言でその場を立ち去る彼。

「……っ、」

 怖い、助けて。行かないで、お兄ちゃま。この場に残って、私を助けて。
 そんな風に小さな心の中で悲鳴を上げていることが、なぜか『私』にはわかってしまう。

(胸が、痛い)

 あの人の姿が見えなくなると、見知らぬ女性の顔は途端に般若のような恐ろしい表情へ変化した。
 ああ……“これ”が指す意味を、『私』はよく知っている。

(怒って、る……)

 そして、見知らぬ女性は片手を振り上げ――次の瞬間。渇いた音が晴れ渡る庭で小さく響き、じわりと頬が熱を帯びる。

「お前って子は! どうして!!」

 痛い、痛い。

「ごめんなさいっ、ごめんなさい……っ!! ゆるしてください、アリスがわるいこでした! ごめんなさい!! ゆるして、」

 ――……お母さん。

「……っは!」

 そこで、目が覚めた。

「はぁっ、はぁっ……!」

 汗で全身がべたつき、心臓は今だ早鐘のように打つ。無意識に震え始めた体を両腕で抱き深呼吸を繰り返していると、唇から勝手に言葉がこぼれ落ちていた。

「……お母さん……?」