前回、女王様の開催したお茶会の日から約一ヶ月が経った、ある日のこと。お城から再び招待状が届いてしまった。

(……できることなら、一人で行きたくない……)

 しかし、どう言葉を変えて誘えどチョコチップを目の前にチラつかせようと服を全力で引っ張ろうとも、凄まじい磁力……いや、根性でソファにしがみついたままびくともしない時計屋さんを連れて行くのは諦め、ひとり重い足取りで城へやって来る。

(はぁ……時計屋さんのバカ……)

 当然のことながら城の前には門番が立っており、「女王陛下の許可無く門を開くわけにはいきません」と突っぱねる彼らに、招待状を見せながら概ねの事情を説明するとやっと中へ入れてもらえた。

「女王陛下がお待ちです。こちらへどうぞ、アリス様」

 廊下の奥から現れたメイド二人に誘導され、大人しく後ろをついて歩く。
 彼女たちも、先ほど会った門番も、荷物を抱えて廊下を行き来したり窓の外に見える庭で仕事をしている使用人達も……やはりみんな、同性同士で顔は同じだ。首筋に刻まれているバツ印のついたハートのマークも、全て。

(ぜんぜん見分けがつかない……)

 このままでは、この人達に何か用があっても誰にどう声をかければいいのかわからない。
 名前、は……たしか「必要な時以外は誰も所持していない」とエースが言っていた。

(それなら……)

 ランクだけはさすがにみんな違うだろうと考えて、精一杯の笑顔を浮かべながら彼女達の後頭部を見上げて問いかける。

「あ、あの……ねえ、あなた達のランクは何?」
「……ラン、ク……数字?」

 心が凍てつくような声音で呟き、ぴたりと歩みを止めてしまったメイド二人は首だけでこちらを振り返った。
 先ほど浮かべられていた笑顔は消え、仮面を貼り付けたかのような無表情で光の消えた四つの瞳に射抜かれた瞬間、ぞわりと全身の肌が粟立つ。

「あ、あの……気に、障ったのなら、謝るわ……ごめんなさい……」

 じりじりと彼女達から後ずさり逃げだすタイミングを伺っていると、いつのまにか他の使用人達に取り囲まれていたことにようやく気がついた。
 完全に逃げ道を塞がれ、狂気混じりの視線が私に貼り付けて離れない。

(逃げ、なきゃ……どうにかして……どう、やって……逃げたら……)
 
 恐怖に膝が笑いはじめ、思考がうまく回らなくなってきた。
 どうしたらいい?こんな時は、どうしたら。誰に、助けを……、

『僕は、いつでもアリスの味方だよ。もう大丈夫、泣かないで』
(……!!)

 今のは……誰の、声だった?
 ああ……いいえ、違うわ。これは、

『困った時は、頼ってくれていいんだよ。だって、僕はアリスの――……』

 これは……私の、思い出……?

「ランク……?」
「数字だと……」
「そんなものは、アリスが……」
「ランク……私たちにもちょうだい? ねえ、」

 ゆっくりとした足取りで私に歩み寄る使用人達の手には、いつの間にか銀色のナイフが握られている。
 心の底から求めるような声で口々に名前を呼ばれ、あまりの恐怖に耐えきれずその場に座り込んだ。

(やめて、やめて……っ! ごめんなさい、ごめんなさい……わたしが……アリスが、わるいこでした……ゆるしてください、ごめんなさい……っ!)

 かたく目を瞑ったまま両手で耳を塞ぎ、頭の中で“誰か”に向かって謝罪の言葉を繰り返す。 頭が痛くて仕方がない。ひどい耳鳴りがして、何も聞こえなくなる。
 怖い、怖い。でも、私のことなんて誰も、

『助けてほしいと思ったら、僕の名前を呼んで。どこに居たって、必ずアリスを助けに来るから……ほら、約束。ゆびきりげんまん』

 ついさっきまで真っ黒いなにかでぐちゃぐちゃに塗りつぶされていた心の中が突然、雲ひとつない空のように晴れ渡りあたたかくなるような感覚がして、

「……助けて、サタン……」

 気が付けば、唇からその名がこぼれ落ちていた。

「アリス」

 不意に、鼓膜を震わせた低い声。同時に、体がふわりと浮かび上がる。

「おい、聞こえるか」

 ゆっくりと瞼を持ち上げて声のした方に目線をやれば、少し上にはサタンの顔が見えた。
 背中と太ももを彼の腕に支えられており、いわゆる『お姫様抱っこ』をされているのだとやっと理解する。

「さ、たん」
「泣くな……もう大丈夫だ、落ち着け」

 安堵から溢れ出した涙を拭うのも忘れ、しゃくりあげつつ何度も頷くと、

「あーあ、みんなで寄ってたかってアリスを虐めて泣かせるなんて……アリスは僕専用の玩具なのに、悪い子だなぁ」

 久々に耳にするもう一つの声がとんと響いた。

(この声は……)

 サタンに抱えられたままそちらに目をやれば、使用人達が手にするナイフのハンドル部分を拳銃で撃って器用に弾き飛ばす黒ウサギの姿があり、私の目線を辿るようにして彼の様子を見たサタンは喉を鳴らして小さく笑った。
 瞬間、いつだかのように使用人達のナイフは全てトランプへ変化し、ばらばらと崩れ落ちていく。

「上手に『ハウス』できない駄犬がいるならここに残っていいよ。僕が躾けてあげるから」

 胡散臭い笑顔を浮かべたまま黒ウサギが真上に弾丸を一発放ったのを合図に、まるで蜘蛛の子を散らすかのように使用人達はいっせいに城の奥へ逃げて行った。

「……黒ウサギ、アリスはお前の玩具じゃない」
「ははっ……“失敗した”ジョーカーくんには、アリスに関してとやかく言われたくないなぁ」

 サタンと黒ウサギは睨み合いながら、売り言葉に買い言葉なやりとりをする。
 口を挟めるような雰囲気でも無かったので静かに両者の頭が冷えるのを待っていると、不意に黒ウサギはにこりと人の良さそうな笑みを浮かべて、私……いや、サタンの手を指さした。

「ねえ、ジョーカーくん? 君、いつになったらアリスから手を離すの?」
「さあ……? いつだろうな?」

 サタンは口元に三日月を浮かべて黒ウサギを嘲笑い、私の後頭部に手を回して顔を自身の胸元に押し付ける。

(……あれ?)

 なぜだろうか。なんだか、サタンは今までで一番……懐かしくて、とても落ち着く匂いがした。

(なんで……こんなに、)

 されるがままになっていると、私の頭を押さえつけている彼の手に少しずつ力が増してくる。
 さすがに息苦しさを覚えてサタンの胸板を両手で押し返せば、小さな舌打ちが耳に届いた。

「あ、貴方……今……! 舌打ち、」
「さっさと離しなよ」

 文句を言い切るよりも先に、黒ウサギが私の腕を掴み少し強引に引っ張ってくる。
 サタンが上手くタイミングを見て解放してくれたため背中から落下する事態は免れたが、次は黒ウサギの胸元にダイブしてしまった。

「んむっ、んんー!」
「……オイ、アリスが苦しんでるぞ」
「あ、ほんとだ。アリス、大丈夫? ごめんね?」

 しゅん、という言葉がぴったりな様子で黒ウサギの耳はぺたりと垂れ下がってしまう。
 普通であれば何とも思わない……はずの光景だが、なぜこの国のランク持ちは全員『顔だけは』いいのだろうか。思わず(可愛い)などと考えてしまったではないか。

「アリスが望んだからさ……」

 笑いをかみ殺したようなエースの声が頭の中で響き、心の中で「うるさいわよ」と言い返してみると、「ははっ、冗談だよ」とさらに返事がくる。
 もしかしてどこか近くで覗き見でもしているのではないだろうかと辺りを見回すが、今この場には私を除いてサタンと黒ウサギの二人以外、人影は一つもなかった。

「……おい、黒ウサギ。用がないのならアリスに近付くな。お前はアリスを傷つけるだけだ」
「へぇ、ずいぶん偉そうなこと言うね? そういう君は、アリスに拒絶されたことを忘れたの? ああ……そうだ、ごめんね。それだけじゃなかったよね。結局……何も、誰も守れなかった役立たずって称号も貰ったんだっけ?」

 二人の冷たい声で、一気に現実へ引き戻される。
 振り返りサタンの顔を見上げれば、今すぐにも黒ウサギを殺してしまいそうな目の色をしていて。

「ちょ……ちょっと、二人とも! 落ち着いて!」

 慌てて仲裁に入り、サタンに「助けてくれてありがとう」と改めて感謝を伝えるが、彼は私の顔を見ることもなく無言で背を向けて煙のように姿を消してしまった。

「サタン……」

 初めて目にした――本物の悪魔を連想させる、冷酷な眼差し。それから、彼から漂っていた、ひどく懐かしい香り。
 しばらくの間、それらが頭から離れなかった。



 ***



「黒ウサギ、」

 赤いカーペットの敷かれた長い廊下を、先ほどからやけに上機嫌な様子の黒ウサギと並んで歩く。
 気持ち少しだけスキップするような足取りの彼に声をかければ、黒ウサギは立ち止まって「ん?」と首を傾げて見せる。

「何で、さっき……サタンに、あんなことを言ったの?」

 記憶のない状態では、あの言葉に込められた深い意味までは汲み取れないけれど、それでも的確にサタンを傷つけようとする悪意が込められていた事だけは私でもはっきりと理解できていた。
 黒ウサギのルビー色の瞳を真っ直ぐに見据えて言葉を投げれば、彼は少し驚いた様子で兎耳をぴゅるりと動かした後、私の両手を取って優しく握る。

「ねぇ……じゃあ、アリスはどうして嫌いな奴の心配なんてするの?」
「……え?」
「アリスは、ジョーカーくんなんて大っ嫌いだって言ってたのにさ……?」

 そんなこと言った覚えはないと彼の手を振り払おうとしたが、指先にやんわりと力を込められ「いいや? 言ったよ。ジョーカーくんなんて必要ないって、突き放したこともある」と囁くように言葉を続けた。
 なんだか、妙な気分になる。どうして、このウサギの言葉は……こんなに、私を……私の本心を、暴こうとしてくるの?

「ち、ちが、う……私は本当に、そんなこと……言ってなんか、」
「残念。僕は、アリスの『嘘』なんて全部お見通しなんだよ。まあ……“今のアリス”には、自覚がないだろうけど」
「私、私は……嘘なんて、」
「ジョーカーくんなんていらない、いなくなればいい。それが本音でしょ?」
「違う……っ!!」

 小さな子供のように「違う、違う」と繰り返してかぶりを振る。勝手に溢れ出した涙が頬を伝い落ちると、黒ウサギに握られていた両手がやっと解放された。

「ちが、う……私、は……っ」

 嗚咽をあげながら手の甲で涙を拭い続けていると、黒ウサギは私の目の高さに合わせるようにして片膝をつき顔を覗き込んでくる。

「アリス」
「私……わた、し、は……ただ……っ、ひっく、ちが、う……」
「……アリス、」
「そんなこと……アリス、いってないもん……うっ、ちがうもん……っ」
「……うん、そうだね。意地悪言ってごめんね、僕が悪かったよ」

 困ったような顔でそう言って私を抱きしめ、優しく頭を撫でる黒ウサギ。

「アリスは、うそついてないのに……っう、どうして、アリスを……っ」
「アリス……良い子だから、僕のところに戻っておいで……そっちはダメだよ。ワンダーランドは、地獄行きだ。アリスの帰る場所は、そっちじゃない……ほら、こっちにおいで。可愛いアリス」

 黒ウサギはもう片方の手で私の頬をするりと撫で、涙を吸うように目尻へ口づけてきた。
 途端に心がふわりと軽くなり、先ほどまで自分が何を口走っていたのか……記憶に鍵でもかけられているみたいに、なぜか思い出せなくなってしまう。

「……あら、アリス?」

 私が泣き止んだ頃。背後から聞こえた風鈴の音のような声で勢いよく振り返る。

「し、ろ……ウサギ……!」
「やっぱり! アリスだわ!」

 白ウサギは花が風でそよぐようにふわりと優しく微笑むと、小走りで駆け寄って私を抱きしめた。
 甘い花の香りが鼻をかすめる。花屋さんと似ているけれど、少しだけ違う……あたたかい匂い。

「ああ……可愛い、アリス……」

 白ウサギは少し背を丸めて屈むと、うっとりとした表情で私の頬に自分のそれをすり寄せてくる。
 柔らかい兎の耳がときおり私の耳たぶをくすぐり、こそばゆさに思わず身をよじった。

「……オイ、白ウサギ。僕のアリスに触るなよ。穢れるでしょ」
「貴方のアリスじゃないし、貴方のそばにいる方が穢れるわよ。どうせまた余計なことを言って、アリスを惑わせたんでしょう? 悪趣味な可愛がり方はやめなさいって何回言えばわかるの?」

 大事な玩具を取られないよう必死な子供みたいに、白ウサギは力強く私を抱きしめる。
 彼女にこうされていると、なんだか……とても心が満たされて、安心感を覚えるのだ。女王様が白ウサギの言うことには素直に従っていた光景を思い出し、なるほどこういうことかと心の中で深く頷く。

「ふふ……良い子のアリス」

 優しく、優しく……慈しむように何度も頭を撫でられて、

(……もっと、)

 猫のように彼女の手のひらにぐいと頭を押し付ければ、「可愛い」と小さな笑い声が降ってきた。

「……黒ウサギ、女王陛下がお呼びよ?」
「…………ちっ!」

 盛大な舌打ちと共に去って行った黒ウサギは、一周回っていっそ清々しいような気もする。
 その後……ご機嫌斜めな黒ウサギによる問題発言のせいで女王陛下が再びヒステリーを起こしてしまい、お茶会は中止。
 黒ウサギを説教する白ウサギの光景は、実に印象深いものだった。