「ごめ……ん……な、さい……」

 少し前にも同じ言葉を別の人に伝えたが、なぜ今回に限ってうまく紡げないのだろうか。
 あの後、ジャックはまた城へ戻り……いや、現れた黒ウサギによって城へ連行され、私は鉛のように重く感じる足で歩みを進めて時計屋さんの家へ帰ってきた。

(だって……他に、行くあてがないんだもの……)

 森を出発した時、星が散りばめられていたはずの空には眩しい太陽が顔を出しており、帰路を進む最中なんども「やっぱりやめようかしら」と悩んで足を止めたが、私みたいな奴を住まわせてくれる優しくて安全な人なんて時計屋さんしかいない。
 私の帰る場所も、今はここだけだ。

「……別に、気にしてないよ」

 直後に小さな声で「バカ」とこぼす時計屋さん。どうやら、私が彼に『バカ』と言ったことは根に持っていたらしい。
 意外な一面にくすりと笑えば、時計屋さんは眉間ににしわを寄せ不機嫌そうな表情を見せたもののそれはほんの少しの間だけで、すぐにまたいつもの気怠そうな様子に戻り寝癖のついた髪を片手でがしがしと掻いた。

「……一人でいて、大丈夫だった?」
「ええ、大丈夫。心配してくれてありがとう、時計屋さん」

 微笑みかけると、彼は「別に……お礼を言われるようなことじゃない」と呟きそっぽを向いてしまったが、その顔が赤くなっているであろうことは想像に難くない。

(ふふっ)

 意外に照れ屋で女の子と話すことが苦手らしい時計屋さんの一見ぶっきらぼうな対応は、嬉しさや恥ずかしさを隠すための建前。
 それが、数日一緒に過ごす間に知った時計屋さんの素顔。

「……ここの住人は皆、アリスのことが……『大嫌い』なんだ……そう、ならなきゃいけない。だから、外出するなら気をつけてね」

 優雅な所作で紅茶を飲み、眠そうな目でどこか彼方を見ている時計屋さんから伝えられた――到底、受け入れたくない事実。
 みんな私のことが大嫌いだなんて、誰だって認めたくはないはずだ。
 受け入れられていると自惚れていたのは本当で。絶望と共に、どうしようもない恥ずかしさがこみ上げてくる。

「……まあ、花屋とか……極一部の奴はアリスのことが大好きで、変わることもないだろうけど……それでも、ランク持ちはみんな『アリスなんて大嫌いだ』と思ってるよ」

 あたまが、まっしろになって、しこうがまとまらない。
 私は……わたしは“このくにでも”きらわれているの?うけいれて、もらえないの……?

「……時計屋、さん……時計屋さん、は? 私のこと、どう思って……」
「……好きじゃない」

 こちらも見ずに即答する時計屋さん。ひたすら胸が苦しくて、こみ上げた涙で視界が歪み始めた。頬を伝い落ちる雫を手の甲で必死に拭っていると、時計屋さんは静かに内ポケットへ手を入れる。
 ああ、これは……少し前に、見たばかりの光景だわ。
 そう、あの時も確か……彼が取り出した綺麗な懐中時計は瞬時に銃へ変化して、それから、

「俺は……アリスのことなんて、大嫌いだよ」

 鋭い銃声が鼓膜を弾いたのは、この国に来てから何度目になるだろうか?
 銃口は真っ直ぐに私の左胸を捉え、まばたきの間に弾丸が心臓を通過する。

「――……っ!!」

 一瞬の激痛。脳みそが状況を理解した頃には、全身の血液が小さく空いた穴から溢れ出し始めていた。
 
(……あれ?)

 おかしいわ。いつもならここでサタンや他の誰かが助けに現れて、不思議な能力で時が戻って……私は結局、九死に一生を得るはずなのに。なぜ、血が止まらないの?サタンは、助けに現れないの?

(なんで、)

 その場に膝から崩れ落ち、言うことのきかない体は真横に倒れていく。
 力が、入らない。撃たれた場所が、心臓が……焼かれているみたいに熱い。意識が、朦朧とする……あれ?私、

「……と……とけ、や……さ……」

 次の瞬間。電源でも切れたかのように、ぷつんと意識が途切れてしまう。
 最期に感じたのは……血の生暖かさと、強い悲しみだけだった。



 ***



「……」

 瞼を持ち上げると、見覚えのある場所にいた。
 エースがいつも私を隔離する世界にとてもよく似ているが、今日は色がついている。いわゆる、死後の世界という場所なのだろうか?

(懐かしい……)

 こうして彩色されると、元いた世界へ帰ってきたように錯覚してしまう。
 久しぶりの景色をぐるりと見渡してから、少し散策でもしようと一歩踏み出した……つもりだった。

(足が、動かせない……)

 ふと、自分の両手が視界に入り思わず目を疑う。

(小さい……)

 まるで、七、八歳ほどの大きさだ。しかし、その手はたしかに私の腕を伝い生えている。
 いや……よく見ると、足も身長も全てが縮んでしまっているのだとようやく気がついた。

「アリス」

 不意に、透き通った低い声で名前を呼ばれて顔を上げる。

(!!)

 そこにいたのは、私が今いちばん会いたくてたまらない人だった。いつも優しくて、穏やかで……本当の兄のように、唯一私を大切にしてくれていた人。

(……どうして?)

 どうして今、私は過去形で話を進めてしまったのだろうか?
 おかしな話だ。彼は今も、この国ではなく元の世界で生きているのだから、現在進行形を当てはめるべきだろう。

(……なんだろう?)

 しかし、なぜかどうしようもない違和感がつきまとうのだ。『あの人』には、過去の思い出話がぴたりと当てはまる……そんな存在だと、無意識下で認識しているような。
 なぜだろうか?

「……お兄さ、」

 瞬間――色のついた世界や幼い自分の体、目の前に居た『あの人』の姿までステンドグラスのように砕け散り、すっかり見慣れたモノクロの世界と元の体に戻ってしまう。
 あの人の代わりに現れるのは、

「やあ、アリス」

 ふわりと宙に浮いたまま口元に三日月を浮かべて笑うエースだった。
 かすかな苛立ちを覚え、一言文句を言ってやろうと思ったのだが、どんなに頑張っても声を出せない。ああ、そういえば……体も相変わらず動かせないままだわ。

(死んでしまったんだから、当たり前のことなのかしら)

 一人で納得していると、心の声を聞いたのか読んだのか……エースは小さく喉を鳴らして笑った。

「アリス、ダウトというトランプゲームを知っているか?」

 彼を睨みつけながら首を縦に振る。

「アリスが行なっている『ゲーム』は、それと一緒だよ……ああ、チェシャ猫にも聞いたのか。それなら説明する手間が省けたな……アリスは嘘を見抜けばいい、ただそれだけの話だ」

 それほど単純なゲームには思えないが、エースは「簡単だろう?」と愉快そうに笑ってふわりと宙に浮き足を組む。

「アリス……思い出してみるといい。チェシャ猫や女王、ランク持ちの言葉を」
(みんなの、言葉……?)

 エースは鳥のような動きでふわりと私の目の前に降り立つと、片手の指をパチンと鳴らした。瞬間、彼の真横――空中に突然、インクで書いたような文字が浮かび上がる。
 内容はこうだ。『ルール執行。現在、アリスが負っている怪我、及びそれに伴う出血は無かったものとし、身体の修復を命じる』……それは一瞬ぼんやりと光を放った後、水に溶けるかのように滲んで消えてしまう。

「時計屋はとても聡明な男だ。だが所詮、他人の口に戸は立てられない……」

 みんなは何を話していた?思い出せ、思い出せ。
 エースの言葉の意味を、

(……あ、)

 再びふわりと浮かび上がったエースは目を細めて首を傾げ、口元に弧を描いたまま私に片手を差し出した。

「……アリスは今、何に気がついた?」

 彼が言い切ると共にモノクロの景色はパリンと音を立てて崩れ落ち、元いた時計屋さん宅のリビングに戻ってくる。左胸には一切痛みがなく、撃たれた穴どころか血の痕まで消えていた。
 みんなに与えられたヒントが、頭の中でぐるぐると繰り返される。

『やあ、時計屋。久しぶりだな。自由な暮らしは満喫できているか?』
『正しくは“夫婦だった”だ。今は違う……色々と、な』
『時計屋、ルール違反の卑怯者めが……一人だけ逃げおった。ルールから、まんまと逃げおった……私は時計屋と違う。最後までクイーンを演じられる』
『ゲーム中はぁ、みーんな嘘つき。ジョーカーはぁ、誰のふりをしてるんだろうねぇ?』

 誰に促されたわけでも、教えられたわけでもないというのに……目の前に居る時計屋さん――いいえ。キングと呼ばれていた彼を指させば、唇から自然に言葉がこぼれ落ちた。

「……ジョーカー、見つけた」