ネムリネズミの小さな寝息と、時計屋さんがお菓子を食べる咀嚼音だけが静かに響く。

「……」

 息が詰まりそうな空気の中、帽子屋さんが淹れてくれた紅茶をちびちび飲みつつ、私の隣に座っている時計屋さんへ目をやった。
 同時に、イカレウサギが勢いよく立ち上がったかと思えば、まるで気が狂ったかのように喉の奥を引きつらせて笑い始め、その様子を見た帽子屋さんはぼそりと呟く。

「偽物ジョーカーが回ってきたか……」
「えっ、」

 彼の言葉に答えるかのごとく、イカレウサギは椅子を土台に使ってジャンプし、お茶会のテーブルへ飛び乗ると天を仰ぎ見て吼えた。

「ジョーカーだ! 今度こそ! 俺が、ジョーカー役だ!!」

 けらけらと笑い、置かれている食器を踏みつけながらテーブルの上を駆け、目にも留まらぬ速さでこちらへやって来るイカレウサギ。

(ど、どうしたら、)

 恐怖で動けない私をよそに、帽子屋さんは我関せずといった様子で紅茶をすすり、時計屋さんは呑気にお菓子を食べていて。
 その気怠げな目はイカレウサギを一度ちらりと見たものの、すぐに目線を逸らして大きなあくびを一つするだけ。

「と、時計屋さ……」

 助けてほしいと縋りたくて、時計屋さんの方を向いた瞬間――私の目と鼻の先を、銀色のナイフが通過した。

「……えっ?」

 カチリ、どこからか耳に届く時計の針の音。
 時計屋さんの白みがかったブロンドヘアーがふわりと舞い、直後に、派手な音を立てて彼は椅子ごと後ろへ倒れる。
 ワンテンポ遅れて理解した。時計屋さんは、イカレウサギの投げたナイフが頭に刺さり、その衝撃で体が転倒したのだと。

「と、とけ……とけい、や、さん……い、いや……いやああああ!!」

 半狂乱になりながら両手で頭を抱え、(これは悪い夢よ)と思い込み逃避しかけるが、涙で歪む視界にイカレウサギの姿が映った。

「え? アリス、どうしたの? 何で泣くの? ねえアリス、何が悲しいの? あ、そっか。わかったよ! 俺に殺される事が泣くほど嬉しい? ああ、良かった! 俺も嬉しいよ、良かった! だってだって、これで大好きなアリスは救われるし俺のものにできるし、アリスも俺も今度こそちゃんと幸せになれるんだ! 大丈夫。爪の先まで、髪の毛だって一本残らず食べてあげるからね! 大好きなアリスの体は隅々まで絶対に無駄にしないよ! 安心してね、安心した? 安心できたよね? ねえ、アリス。大好き、大好き。アリス、誰よりも大好きだよ。俺の宝物。大好きなアリス、幸せになろう?」

 彼は恍惚の表情でそう言って、ナイフを逆手に持ち替え、なんの躊躇いもなく私の眉間に振り落とす。

(時計屋さん、)

 ぎゅっと瞼を閉じた瞬間、誰かに背後から抱きしめられるのがわかった。
 そのまま、椅子ごと後ろへ引き寄せられ、恐る恐る瞼を持ち上げ状況を確認する。

(なにが、起きて……)

 目の前にあったのは、ナイフを眉間に突きつけられ動けなくなっているイカレウサギの姿だった。
 背後から伸びた腕は、イカレウサギのナイフを片手で掴んで制止している。黒い手袋にはじわりと何かの滲みが広がっており、

「……こら、いきなり投げるなよ……さすがに驚いただろ」

 頭上から降る気怠げな低い声に振り返れば、そこには時計屋さんの姿があった。

(よ、かった……生きて、)

 再び溢れ出した涙が目尻からこぼれ落ち、

「俺とアリスの幸せの邪魔をするなよ!!」

 イカレウサギは声を荒げて距離を取り、再びナイフを投擲してくる。
 しかし、どういう仕組みなのか……時計の針の音が耳に届くたび、それらは空中で静止して、私や時計屋さんの体に届く事なく落下してしまう。

「……」

 少しの間を置いて、ぴたりと動きを止めたイカレウサギは、先ほどまでの彼はいったい何だったのか……素知らぬ顔で席へ戻り、フォークを手に取ってケーキを食べ始めてしまった。

「……ジョーカーではなくなったみたいだね」

 私から体を離し、あくびをしながらナイフをその辺りに投げ捨てる時計屋さん。思わず立ち上がって彼に抱きつくと、「えっ!?」と上ずった声を出す。

(生きてた、よかった……よかった……! 私のせいで、“また”誰がが死んじゃうのかと思った)

 そのまま、人目もはばからず小さな子供のように声を上げてわんわんと泣けば、彼は私の涙が止まるまで黙って頭を撫でていてくれた。



 ***



 私が落ち着きを取り戻し、「もう帰ろう」という流れになった時。今までずっと我関せずで静観していた帽子屋さんが、とてもバツの悪そうな表情で口を開く。

「あ、アリス……あー、その……悪かった」
「そんな……帽子屋さんは何も悪くないわよ」
「いや、だが……俺は、止めに入らなかっただろ。時計屋なら大丈夫だと知っていた、って……悪い、これは言い訳だな。あー、その……」

 彼はそこで言葉を切ってから、荒い手つきで後頭部をがしがしと掻き、少し顔を背けてこう続けた。

「また、お茶会に来てくれ。時計屋がいなくても……今度はちゃんと、俺が……あー、その……アリスを、護って……」

 帽子屋さんはそこまで言うと、帽子のつばで目元を隠しながら俯いて口を閉じてしまう。耳まで赤くなっている帽子屋さんのそんな様子に、自然と笑みがこぼれた。

「ええ、ありがとう。また来るわ」



 ***



「やあ。お疲れのようだね、アリス」

 朝、目が覚めてからベッドから降り、身支度を済ませて部屋のドアノブに手をかけた瞬間、突然モノクロの世界に隔離された。
 ふわりと宙を浮いて現れるのはもちろん、以前出会ったあの男性。

(……)

 前回も思ったが、この世界は一体どういう仕組みになっているのだろうか。扉の向こうは廊下に続いているはずだし、

「夢ではないよ」

 夢でもない……らしい。この世界も、私たちが今いるこの空間も、「全て現実だ」と彼は言った。

「そう、現実だ」

 それならどうしてこの人?は空中に浮いていられるのか、今この世界は色を失っているのか、次々に新しい疑問が浮かんでしまう。
 だが、朗らかにわざとらしく笑う目の前の男性を見て、私が求めている答えはくれないのだろうと何となくわかってしまい、喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。

「……そういえば、」
「うん? なんだ?」
「私、まだあなたの名前を聞いていないわ」

 だから、何と呼べばいいのかわからない。
 そう伝えると、彼は顎に片手を置いて少し考える素振りを見せたあと、ふわりと後ろから抱きついてくる。

「ちょ、」
「……リティリア」

 私の耳元に口を寄せ、子守唄のように優しい声で囁いた。

「私は……エース・リティリアだよ」
「エース……」

 トランプで表すならば、A――『一』だ。
 以前、ジャックが教えてくれた『ランク』を思い出し、「それがあなたの数字なの?」と問えば、彼……エースは目を丸くし、ぱちくりと何度かまばたきを繰り返してから「ふっ」と吹き出して笑った。

(なによ……!)
「ははっ……ああ、すまない。いや……違う、数字ではないんだ」

 ふわりと浮かび上がって私の頭を跨ぎ、身軽な動きで目の前にやって来る。

「私には、いわゆる『ランク』と呼ばれるものは定められていない。エース・リティリア……それが、私に“与えられた”名前だよ」

 他の住人には……今はまだ、用意されていないが、ね。
 付け足すようにそう続けると、彼は優しい手つきで私の頭を撫でて微笑んだ。

「トランプだろうと何だろうと、遊ぶためにはルールが必要だろう? 私は、その『ルール』のような存在だよ。だから名前を与えられている。だが、アリスは違う……」

 突然、彼と同じように体がふわりと宙に浮き、そのまま抱き閉められてしまう。
 相変わらずその手つきはとても優しくて、どこか懐かしい感覚に襲われながら、抵抗するのも忘れて大人しく腕の中におさまっていた。

「アリス……アリスは、まだ何者でも無い、真っ白なトランプだ。何にでもなれる……だが、ジョーカーとは確実に違うカード。ランクは無く、ジョーカーでもない。何にでもなれる、自由な存在……」

 だから、アリスは狙われるんだよ。
 耳元で囁く、優しい声。そのはずなのに、脳はひたすら警報を鳴らし続け、体は自然に震え始める。
 怖い、怖い……ひたすら心が叫んでいる。

「ここの住人は皆、違う存在になりたがっている……アリスが決めた数字ではない、他の存在に。アリスが数字で縛ったくせに、アリスには数字がない。アリスは……いつだって、自由だ……だから皆、アリスが羨ましくて仕方がないんだよ……アリスは『現実』よりも残酷だ。皆には自由を許さないというのに、自分だけは何のしがらみも無いのだから」
「……っ、」

 拘束するように彼の片手で両手首を掴まれ、エースは空いている方の手で髪をさらりと撫でてきた。
 やっぱり、どうしてそう思うのかはわからないけれど……ただひたすら、怖い。手つきも声音も優しいはずなのに、怖くてたまらない。今すぐに、この場から逃げ出してしまいたい。

「現実からは、どう足掻いても逃げられない。変わる事もない」

 心の声に、エースが口頭で答える。

「住民たちは、いつだってアリスの持つ『真っ白なカード』という立場を狙っている。だが……アリス。そんな事のために殺されたくないのなら……こんな国は、今すぐ捨ててしまえばいい」
「……えっ?」
「おかしな『ゲーム』など放棄して、現実の世界へ帰る……アリスが私に一言命令すれば、それが叶う。そうすれば、“アリスの命だけは”助けてやれるんだよ」

 エースは、私の喉を指先でなぞるように撫でた。色んな気持ちがせめぎ合って動けずにいる私を見て、彼は喉を鳴らして小さく笑い、片手で首を掴んでくる。

(!?)

 呼吸はできるし、指先に力を込められているわけでもないのに、殺されるかもない恐怖に体が震えた。

「……私は、アリスを殺したりしないよ」
(……ああ、どうしてかしら?)

 いつか、どこかでこうやって……同じように、首を絞められた気がする。そんなわけ、ないのに。

「……なあ、アリス? お願いだ。私に命じてくれないか? 死にたくない、元の世界に帰りたい……と。そうすれば、」

 突然、パリンッとガラスが割れるような音が響くと同時に、モノクロの世界は粉々に砕け散り、景色は元いた時計屋さん宅の客室へ戻った。
 先ほどまでふわふわと浮いていたエースは、身軽な動作で床に着地する。

「エース……」
「やあ、時計屋。久しぶりだな。自由な暮らしは満喫できているか?」

 目の前に現れた時計屋さんに対し、エースは煽るような口調で言葉を落とす。
 自由、というワードが出た瞬間に、時計屋さんの眉がピクリと反応し、彼は眉間に深いシワを刻んでエースを睨みつけた。

「おっと、失礼」

 その状況さえも楽しんでいるのか、口元に三日月型を描いていたエースは、時計屋さんが胸ポケットから懐中時計を取り出した途端に「時計屋も短気だな」とこぼし、まるでロウソクの火を消すかのように消え去ってしまった。

「……アリス、もう大丈夫だ。怖がるな」

 時計屋さんは、エースとは少しだけ違う、優しくあたたかい手つきで私を抱きしめ頭を撫でてくれる。
 そこでやっと強張っていた体から力が抜け、彼に全身でもたれかかった。

「……ねえ、時計屋さんは、エースを知っているの?」
「……いや、知らない。大嫌いだ」
「知っているのね」

 むっすりとした顔で、なおも「知らない」と繰り返す時計屋さん。小さく笑って、助けてくれた件のお礼を伝えると、彼はただ黙って私の頭を撫でた。

(あ、)

 まただ。また、懐かしい感覚。
 それなのに、どれだけ記憶を辿ってもはっきりと思い出せない事が、たまらなくもどかしかった。