この世界に来て、まだ二日ほどしか経っていない……と、思う。しかし、その間ずっと時計屋さんの家に引きこもったまま過ごしていた。
 不用意に外をうろつけば、いつ誰が偽物ジョーカーになって、私を殺しに来るかわからない。

(本物のジョーカーを探せ、って言われたけど……危険な目に遭うとわかっていて、一人で外出する気になんてなれないわ……)

 時計屋さんも、そんな私に対して特に何か言う事もない……というより、彼が口を開くこと自体少なかったので、それに甘えてただひたすらぼーっと過ごしていた。

(時計屋さんといると、なんだか懐かしい気持ちになって落ち着くのよね……)

 そして、体感で三日目。朝、起きてから片手で目をこすりつつ向かったリビングに、時計屋さんの姿が見当たらない。

(……? あれ……)

 この数日間、私が目を覚ました時には大体、時計屋さんはまだソファで横になって寝息を立てていたというのに、今日は彼の寝床にはただ、雑に畳まれた毛布だけが残されている。
 机の上は相変わらず工具や時計、資料らしき物で散らかっているが、家主の姿はどこにも見当たらなかった。

「時計屋さん……?」

 家の中を隅々まで探してみたものの、やはり彼はどこにも居ない。
 何か私用で出かけたのだろうと思うことで自分を納得させると、ソファに腰掛け手元に目線を落としたまま毛布を畳み直す。少しの間を置いて、視界の端に音も無く黒いブーツと真っ赤なロングコートが映り込んだ。

「!!」

 時計屋さんが帰って来たのだと思い、勢いよく顔を上げる。しかしそこには、仮面に貼り付けたような笑みを浮かべる男性が立っていた。
 私から見て左の頬には、ダイヤのマークが刻まれている。

(えっ、誰……?)

 私が口を開くよりも先に、男性は笑顔を崩さず言葉を紡ぎ始めた。

「んー、あれ? アンタ、誰?  アイツが俺の居ない時に『住民』を家に招き入れるわけがないから……ああ、なるほど! 命を狙う侵入者か!」

 にこりにこり、目と口元に浮かぶ三日月。
 男性は「うんうん、そうだ」と二、三度頷いた後、胸ポケットに収められていたペンらしき物を手に取る。ブンッと風を切り それを真横に振ったかと思えば、その物体は一瞬眩しい光りを放ち、瞬きの間に鋭い剣へ変化した。

「……え?」
「アイツを傷つけようとする奴は、みんな俺が処分しなきゃいけない。ダイヤの騎士として……俺が、アイツを守らなきゃな」

 にこり。朗らかな笑顔と共に、剣は私の体を一刀両断してやろうとばかりに、頭上から一切の躊躇いもなく振り下ろされる。

(ああ、また……)

 こんな時にこそ、あのムカつくサタンがいてくれたらいいのに。そういえば、ここしばらくあの顔を見ていない気がするわね。今ごろどこで道草を食べているのかしら?
 一瞬のうちに様々な考えが浮かんでは消え、(こんな時でも、記憶が無ければ走馬灯を見ることすらできないのね)などと思っている間に、刃は文字通り目の前まで迫り来る。

(今度こそ、死んじゃう)

 両手で頭を守りながらかたく瞼を閉じるのと、カチリと時計の針が止まるような音が耳に届いたのは同時だった。

(……?)

 恐る恐る瞼を持ち上げると、眼前では相変わらず刃が怪しく光っていて、「殺すのはやめてくれたの?」と問う暇もなく、突然ふわりと抱き寄せられる。

「!?」

 目と鼻の先にあった刃が遠くなり、頭の先から真っ二つにされてしまう心配がなくなった安堵に胸を撫で下ろして、今しがた私を抱き寄せた人物に目をやると、そこには深いため息を吐く時計屋さんの顔があった。

「と……とけ、い、」

 瞬間――バスンと何かが断ち切れる音。それから、足元に伝わる小さな振動。
 恐る恐る目線を移動させると、そこには斬られて一刀両断されたソファが。

(……!?)
「……あれ? キング、そのこ知り合いだったの?」
「お前……後で絶対に弁償させるからな……」
「なんでさ!? 怒るなって! キングを想うが故の行動だったんだぜ?」

 先ほど私を殺そうとした男性は、「あっはっは」と上機嫌に笑いながら時計屋さんの横に立ち、彼の肩に腕を回して顔を寄せる。
 時計屋さんはそれを「何が『想うが故』だ、馬鹿」と不機嫌そうに吐き捨て振り払ってしまった。

「ジャック……ルールを聞かなかったのか?」
「えっ、ルール? んー……あっ、」
「また忘れてたのか……」
「いやー、ごめんごめん! そういえば、そんな話も聞いたような気がするな!」

 時計屋さんは再度深いため息を吐くと、今の今まで私を抱き寄せていた手を少し慌てた様子で離し、目線をどこか彼方へやってしまう。

(仲が良いのかしら……?)

 時計屋さんと、ジャック――と言うらしい男性を交互に観察していると、不意にジャックと目が合ってしまう。(あ、しまった)と内心焦るが、彼はただ崩れない笑顔を私に向け続けた。

「さっきはごめんな。どうにも物覚えが悪くて……アリスのことも、今まで忘れちゃってたよ!」
 
 実に楽しげに笑うジャックは何食わぬ顔で私の背後に立つと、黒手袋に包まれた手でバンバンと遠慮なく肩を叩いてくる。
 
「……あっ、そうそう! 俺はジャック! また仲良くしような、アリス」



 ***



「……そういえばさっき、時計屋さんを『キング』って呼んでいたけど、」
「ん? ランクだよ。キングに聞かなかった?」

 先ほどとはうって変わって、三人仲良くテーブルを囲み椅子に腰掛けて紅茶を飲む。ジャックに先ほど抱いた疑問を投げてみると、初めて耳にする単語を返された。
 ランク……やはり私には、何のことか全くわからない。

「名前とは違うの……?」
「ううん、名前ではないよ」
「あー、そっか! アリスは“まだ幼稚だから”そんなことも知らないんだったな!」

 喧嘩を売られているのだろうか?やはりジャックとは仲良くできない気がする。

「俺たちには基本、必要なとき以外は名前とか与えられてないからなー……だから『役名』で呼ぶことが多いけど、俺とキングみたいに『ランク』で呼んだ方が楽だって奴もいる!」

 役名、また新しい単語が出てきてしまった。
 この世界に来てから、ルールやジョーカーはさておき、『役名』やら『ランク』だのと、聞き馴染みのない単語ばかりが住人の口から飛び出すものだから、そろそろ頭の中がこんがらがってくる。

「……」

 わからない、と言う代わりに音を立てて紅茶を啜ると、ジャックはそれを見て小さく笑った。

「えーっと……役名って言うのは、時計屋とか帽子屋とか、俺だったら騎手だな。つまり、通り名のことだ」
「……ランクは、それぞれに与えられてる数字のことだよ」

 ジャックの言葉に対して付け足すように時計屋さんは続ける。不機嫌そうな雰囲気の消えた表情と声音は、まるで「わかる?」と優しく聞いてくれているみたいだ。

「つまり、俺はダイヤの十二だからジャック。キン……時計屋は、ダイヤの十三だからキングってわけだ!」

 胸を張ってからからと笑い、手袋を外しながらテーブルの上に少し体を乗り出して、時計屋さんが私の隣で食べているチョコチップの袋へ手を伸ばすジャック。その手の甲が思い切り叩かれるのを横目で見た後、いい機会だと思い、この家に来た当時の疑問を唇から落とした。

「この街って……時計屋さん以外だれも住んでいないの? この家に来た時、住民らしき人影を全く見かけなかったわ」
「ん……? いや、住んでるよ」

 何を言っているのだろうかと言いたげな、キョトンという言葉のぴったりな顔を浮かべる時計屋さん。
 少しの間を置いて「んー……」と小さく唸りながらチョコチップを一握り食べてから、なにか思い出したような声を出した。

「あ……そっか。アリスはまだ、ここに来てからの時間が短いから……」
「時間が短い……?」
「なんて言うか……うーん、まあ……とりあえず、他にもたくさん住んでるけど、アリスの今の状態なら“遭遇しないで済む”ってだけだよ」
「そうだな! どうしても会いたいなら、適当な家の扉を叩いて無理矢理にでも開けてしまえば、否が応でも顔を合わせられるだろ!」

 ジャックは声を弾ませて無害そうに笑いながら、何ともとんでもないことを言ってのける。
 これは誰でもため息を吐きたくなるわねと、同情に近い気持ちを抱いて隣を見ると、時計屋さんは何の脈絡もなく突然立ち上がるものだから、驚いて心臓が大きく跳ねた。

「そういえば……」
「なになに? キング、どうした?」
「……誰かさんのせいで途中で抜け出した仕事がある……ってことを、いま思い出した」

 ジャックを軽く睨みつけてから、めんどくさそうに片手で頭をかき玄関へ向かう時計屋さん。その後をついて行こうとすると、背後から『誰かさん』に呼び止められる。

「アリス! 危ないから俺と一緒に留守番してようぜ! 一人じゃ暇で可哀想だろ。俺が!」
「……お前と二人きりでいさせた方が危ないだろ。お前は暇で可哀想にして一人で待ってろ」

 私が拒否するより先に、時計屋さんが反論してくれたのでとても助かった。

「えー!? 何でそんなこと言うんだよ、キング! 俺が可哀想だろ! アリスもそう思わないか!?」

 姿が見えなくなるぎりぎりまで、玄関先でぶーぶーと抗議するジャックを置いて、時計屋さんと一緒に森の中へ入って行く。

(……そういえば、『仕事』ってどこでするのかしら?)