悪役令嬢は執事見習いに宣戦布告される

 カプチーノの上にたっぷり盛り上がったホイップクリームをスプーンですくい、イザベルはぱくりと口に頬張る。誘惑に負けて食べたクリームはほどよい甘さ加減で、苦いコーヒーと混ぜたら、まろやかな味になるに違いない。
 イザベルがスプーンでぐるぐるかき混ぜていると、ジークフリートは話の矛先をリシャールに向けた。

「ところでリシャール、彼女の身の安全は万全なのだろうな」
「無論です。この日のために、密かに城下町に護衛を何人か配備しております」
「そうか。それならばいい」

 初めて聞く警備体制の裏情報に、イザベルは吹き出しそうになった。庶民の格好をしていても、自分は伯爵令嬢だというプライドで飲み込んだが、そんな大がかりな人員配置があったとは予想だにしていない。

(っていうことは、この計画はメイドだけじゃなく、使用人全員が知っていた可能性が高いわね。道理で、使用人通路で誰ともすれ違わなかったわけだわ)

 イザベルの視線に気づいているだろうに、リシャールは涼しげな顔で、アイスコーヒーを飲んでいる。

「ところで、イザベル。実は、君に会いに行こうと思っていたんだ。手間が省けてよかった」
「……どうかしました?」
「ああ、実は――」

 続く言葉はカランカランという鈴の音でかき消された。新たな客かと思い、視線を上げると、そこにいたのは私服姿の女性がひとり。なぜかパンがたくさん入った紙袋を両手で持っている。

「え……フローリア様?」

 思わず彼女の名前を呼ぶと、すぐに紫の瞳と目が合う。

「まあまあ! イザベル様にこんなところで会えるなんて! 奇遇ですね」

 フローリアは抱えてきた荷物をカウンターにどさっと置き、小走りでイザベルの前までやってきた。嬉しそうに両手を合わせ、顔をどんどん近づけてくる。

「一体、どうしてこちらに?」
「わたくしたちはジークフリート様に連れてこられて。それより、フローリア様こそ、どうしてここに?」
「ここは叔父が経営する店なんです。お昼は隠れ家カフェ、夜はバーになるんです。今日は、ディナーに使うパンの仕入れを頼まれまして」
「へ、へえ。そうなの……びっくりするような偶然ね」
「はい。本当に驚きました。その格好も、何か特別な意味があるのですか?」

 女子トークに花を咲かせていると、咳払いが聞こえてきた。
 声の主を見やると、存在を忘れかけていたジークフリートが神妙な顔になっていた。

「フローリアもいるなら話が早い。イザベルとフローリア、二人とも僕の別荘に来ないか?」
「え……別荘ですか?」
「オリヴィル家の別荘というと、北の街にあるあの家ですか?」

 女性陣の疑問に答える声は明るい。

「ああ。まさしくそこだ。避暑地としても有名で、この王都からも割と近いし、今年はフローリアも来てみないか。湖がきれいな場所なんだ」

 ジークフリートの自慢げな声を聞いて、記憶がフラッシュバックした。

(このセリフは聞いたことがある……。確か、城下町でお買い物をした帰りに、悪役令嬢に絡まれるイベントがあるのよね。舞踏会の選択肢を間違えて、好感度が少し下がったときに出てくるやつ。正しい選択肢を選ぶと、偶然居合わせたジークに別荘に誘われるっていう流れで……)

 言わば、チャンス挽回イベントである。
 ちなみに、好感度がマックスだと悪役令嬢は登場せず、ジークフリートが一人でヒロインの元へやってくるのだ。

(つくづく思うけど、ゲームの強制力ってこわいわね。ここでフローリア様に会ったことも偶然じゃないだろうし。あれ……でも、そうなると……。わたくしの役柄は悪役令嬢に変わりはないってこと?)

 期待した自分が愚かだった。
 思い返せば、ハンカチ事件でも悪役令嬢枠に数えられていたではないか。ただのモブキャラであれば、注目されることもない。

(世の中、甘くはないわ……)

 ゲームと経緯は異なるが、別荘へのお誘いは、夏のイベントフラグに他ならない。となると、イザベルの選択肢は一つしかない。

「申し訳ございません。わたくしは、ちょっと外せない用事がありまして……」

 せっかくのイベントフラグを折るわけはいかない。だが辞退を申し出ようとしたイザベルの前に、ジークフリートが待ったとばかりに手で制止をかける。
 一体なんだと視線で問いかければ、彼はイザベルではなく、正面に座る専属執事を見やる。

「リシャール」
「はい」
「……イザベルの来週の予定はどうなっている?」

 口裏を合わせるのよ、とアイコンタクトを送るものの、リシャールは瞬きひとつで主人の命令を断った。

「私が把握している範囲では、夜会の招待が数件あるぐらいです。どの招待も、イザベル様が欠席しても支障のないものかと」
「ならば問題はないな」

 ジークフリートは鷹揚と頷き、イザベルとフローリアを順番に見やる。

「僕は別件で後から行くことになるが、当日は公爵家の車で迎えを寄こそう。二人とも、そのつもりでいてくれ」

 彼の中ではすでに確定事項らしい。そして、それを覆す権利はイザベルにはないようだ。
 ジークフリートもイザベルが断るのを見越して、リシャールに予定を聞いてきた。もはや、イザベルの味方はここにはいない。

(ああ……万事休すとは、まさにこのことね……)

 時には諦めることも肝心である。非常に不本意であるが、この際、役目を真っ当に果たそうではないか。たとえ、それが当て馬であっても。

「……承知しましたわ」

 暗い気分になるイザベルとは対照的に、フローリアは心から楽しそうに目を輝かせている。好きな人に別荘に招待されて、喜ぶなというほうが無理な注文だ。

「今から楽しみです! 何を準備すればいいのでしょうか」
「身の回りの品は、すべてこちらで用意する。当日は手ぶらで来てもらって構わない。迎えの時間は追って連絡する」

 ジークフリートは目を細め、嬉々とするフローリアを愛おしそうに見つめる。その後でイザベルに視線を送ってきたが、つーんと横を向く。

(わざわざ、わたくしの前でいちゃいちゃしなくたって! 婚約破棄の心づもりはもうできているのに)

 つくづく悪役令嬢とは損な役回りだ。そっとため息をつくと、同情したのか、リシャールが労わるように微笑んだ。