僕が産まれたのは叔父である泰人が23歳の時
3月の後半、桜が花を開き始める暖かな日だった。
早朝5時、朝日が窓に差し込まれるのに少し遅れて僕が産まれた。
五体満足、母子ともに健康、両家の家族が大方揃った幸せな空気の中、案山子家の長男の僕は産声を高らかに示した。
涙ながらに僕の出生を喜ぶ両親よりも涙を流し、歓喜したのが叔父だったらしい。
叔父は恋人も無ければ未婚だった、
昔の彼女と色々あり、女性恐怖症になってしまったらしい。だがしかし、叔父は子供が好きだった
いや、違う。全世界の子供を無条件に好きな訳では無い。
叔父は弟、つまり僕の父親を溺愛していた。
もちろん、兄弟愛的な意味で、だ。
そんな溺愛して止まない弟の子供、自分の甥、
叔父が溺愛の対象を僕に移すまでカウントなど必要なかった、僕は生まれながらにして叔父のハートを鷲掴みにした訳だ。

僕が産まれてからほぼ毎日、叔父は我が家を訪れては僕の世話を手伝っていたらしい、それはもう幸せそうに、自分の子供のように。
それによって両親は大きな問題無く、割と楽に育児が出来たらしく、今でも大層感謝している。

週末は叔父が僕を預かり、リフレッシュという名目で出掛けるのが恒例のイベントだった。
鮮明な記憶ではないが、叔父とは色んな場所に行った記憶がいくつかある。

例えば、マンションを出てすぐ近くにある公園に2人で行くことが多かった。
幼少期、友達を作るのが苦手だった僕を理解して無理に子供の輪に入れようとせず、2人で遊んでくれるのが叔父の優しさだった。

遊具で遊ぶのはもちろん、子供間では得られない小さな豆知識なんかも教えてくれた訳だ。
例えば、野草を見つけてはどんな植物なのか花を咲かせるのか否か、食用になるのかなど、幼い頃の僕にとっては覚えきれないほどの膨大な量の雑学を叔父は教えてくれたのだ。
また、生き物を見つけては名前だけでなく生態や天敵、有益か否か、難しい話も色々あった。
しかし、そのおかげもあって僕は小学校では至って楽に友達を増やしていくことができた。
「雑学博士」なんて下らない渾名まで付けられたこともあるくらいだ。
近所の公園だけじゃない、少し遠出して海にも行った、自然に囲まれた山、粼が心地よい川、出来たばかりの遊園地、上げていくときりがない。
それ程までにたくさんの時間を叔父と過ごした。

僕は叔父が大好きだった。
もちろん、家族愛として、だ。