「おーい」と気の抜けた声に体をゆすられて、はっとした。鏡の中には、自分と椎名さんの姿が映っている。ああそうだ、トイレに行って、手を洗っていたんだ。

 「大丈夫かー? すんごいぼーっとしてたよ?」

 もしや、と、椎名さんはにやりと笑う。

 「好きな人でもできた?」

 「好き⁉ は⁉ なに、なんの話⁉」

 反射的に言い返してから、椎名さんがぽかんとしているのに気が付いた。

 「……いや、ごめん」

 「いや、こちらこそ。え、なに、本当に好きな人できたの?」

 「まさか。全然」

 「ふうん」と言いながらも、椎名さんの表情は楽しげ。

 「じゃあ、なにかあった? 秋穂ちゃんがそんなにぼーっとするなんて」

 「別に、なにもないよ」

 「ふうん。しかし、早く部活も再開しないかねえ。秋穂ちゃんと試合やりたくてしょうがないよ」

 「ああ、わたしも椎名さんと戦いたい。思い切り戦って、すっきりしたい」

 「いや、絶対なにかあったやつじゃん」と、椎名さんが小さく笑う。

 「なにもないよ」

 本当に、なにもないんだ。なにも考えられない。ずっとずっと、透くんの存在がちらついて、なにも考えられなくて、なにも感じられないんだ。気が付けば授業が終わっていて、前の席の人にノートを写させてもらってを繰り返して、三時間目まで過ごした。あの、おでこに触れた優しい手。髪を撫でた、優しく軽やかな手つき。本を抱えて、楽しみと言って笑った無邪気な顔。

透くんの一つ一つが、全身にこびりついて離れない。自分で何気なく髪の毛に触れたとき、ふと顔に触れたときに、昨日の感覚をありありと思い出して、最後には、透くんの無邪気な笑顔が鮮明に蘇る。

 「ねえ、秋穂ちゃん。もう、手洗うの、いいんじゃない? いくら梅雨でも、荒れるよ?」

 「え? ああ、うん……」

 そうだね、と言って、わたしは蛇口の水を止めた。スカートにつけたデニムの移動ポケットからハンカチを取り出して、手を拭いた。