胸がどきどきと、しつこく騒いでいる。

 勢いできてしまったけれど、今更ながら悔いている。やめておけばよかったと。心臓がうるさい。体が熱い。手元の文庫本に目は落としているけれど、その文章は一つも頭に入ってこない。

 「紫乃ちゃんはさ?」なんて急に名前を呼ばれて、「なに⁉」と反射的に声が出た。

 「この中で、雨の話のほかに好きな話、ある?」

 「ああ、えっとね……」

 落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かせる。透くんがなんだ、透くんの部屋がなんだというんだ。大型の本棚が六割ほど本で埋まっていて、その隣に勉強机があって、その反対側にベッドがあって、その足元に備え付けのクローゼットがあって――なんら変わった場所ではない。

木製の小さな踏み台がそばに置いてあるほどの大型の本棚、その半分以上が埋まっているなんて意外だったけれど、勉強机の周りが思いのほか片付いていて驚いたけれど、寝具が茶色と白で統一されているのが意外だったけれど、それだけのこと。

なんら特別な場所ではない。なんら特別なことではない。

 「なんだろうなあ……」

 雨の話以外に、なにかいいと思った話、いいと思った話――。

 決してぶっ飛んだ質問というわけでもないのに、頭が混乱している。雨以外、雨以外――。

 あれ? 雨の話以外になにが入ってたっけ⁉

 「えっとね、あれ、あれが好きだった。お客さんの友達がパン屋さん開業する話」

 「ああ、目次にあった、『ベーカリー』って話かな」

 「そうそう、それがね、結構好きだったよ」

 「へええ。紫乃ちゃんは今どこ読んでるの?」

 「えっと……」

 改めて、手元のページに視線を落とす。なんだっけ、この話なんだっけ……。ページの真ん中、一番上に書いてある文字を確認する。

 「『ぬいぐるみ』って話を」

 「あ、一番最後だ?」

 「そう、一番最後……」

 はは、と短く笑ってみると、透くんが静かに本を閉じた。

 「紫乃ちゃん、大丈夫?」と、純粋な目で見つめてくる。

 「え、なに、別に平気だけど……?」

 「本当?」と、目の形が困ったように変わる。

 フローリングに手をついて、ゆっくりゆっくり、こちらへ近づいてくる。

 「な、なにする気?」

 「紫乃ちゃん、なんか変」

 「変じゃないわよ、失礼な人ね」

 「いや、変だよ」

 言いながらも、ゆっくり距離を縮めてくる透くんに、わたしは「ばか!」と叫ぶ。

 「大丈夫。少し、確認するだけ」と言って動きを止めると、優しい手が、ふわりとおでこに触れた。温かさも、冷たさも感じない。

 透くんの方も同じだったのか、じんわりと奥から滲んでくるような笑みを浮かべる。

 「よかった。風邪でもひいちゃったかと思った」

 「ひいてないよ。……大丈夫だから」

 早く離れてよという意味を込めて、わたしは透くんの手から逃げるように頭を動かした。「ごめんごめん」と透くんは苦笑する。

 そして、「紫乃ちゃん、かわいい」と、温かな笑みを浮かべる。さらに、おでこに触れてきたようなやわらかさで、ぽんと髪を撫でるものだから、わたしの胸の奥は、もう、どうにかなりそう。

 ……おかしい。おかしいよ。今まではなんとも思っていなかったのに。昨日までは、なんとも思っていなかったのに。今では心臓が、小説の世界へ戻っていった透くんにも聞こえてしまいそうなほどうるさい。文庫本が乗っている両手も、ぷるぷると震えている気がする。わきと背中が、しっとりと汗に濡れている。

 心なんて、目にも見えないのに。そんな奥の方で、こんなにも大きな想いを抱えていたなんて。自分が、実際には透くんをどう思っているんだろうと、ふたを開けてしまってからは、もう二度と閉まらないほどの勢いで、次から次へと想いが湧いてくる。こんなふうに思っていたんだよと叫んで、声がやまない。梅雨入りしてからの、この雨のように。

 ――ああ、もう、おかしくなりそう。