三条大橋制札事件の後、出動した隊士には新選組の親元である幕府と会津藩から報奨金が渡された。

あの日、土佐藩の逃走を許してしまったがそれ以降三条大橋の制札が抜かれることはなかった。

もう、制札が立つことはなかったからである。

新選組は日常に戻りつつあり、それぞれ担当の隊が京を見廻り、問題がないかを確認する日が続いていた。

そんなある日、事件が起きた。

今回の事件は長州藩や土佐藩が関わっているものではなく、新選組の内部で起きたものだった。

伊藤甲子太郎らが中心となり新選組を脱藩し新たに御陵衛士を結成したのだ。

御陵衛士とは孝明天皇の御陵を守るべくして結成されたものだが、実際には近藤先生と伊藤先生の意見が合わず、袂を分けたため結成されたのだった。

伊藤先生は同じ志を持つものに声をかけ、その考えに賛同したものとともに新選組を脱退したのだった。

御陵衛士として新選組を脱藩していったものの中には藤堂先生など組長各の者もいて彼らの脱退を許した新選組は実質権威が落ちたも同然だった。

御陵衛士として隊士が何人も脱退したのを受け、その日から連日のように残りの組長各と近藤先生、土方先生を含め、どのように対処するのかが話し合われた。

御陵衛士を認めず、脱退した者を全員切腹させられたら問題は解決したのだが、御陵衛士には大きな後ろ盾があったため、それをすることができなかったのだ。

その日の話し合いを終えてはため息をつきながら部屋へ戻ってくる斎藤先生を毎日のように見ているのはかなり辛かった。

「斎藤先生、お茶を…」

私にできることは口出しをしないことだと考え私はひたすら影から斎藤先生を支えることに徹した。