きっかけは、去年の夏休み中。

 自分のロッカーにプリントを置き忘れていたことに気づき、歩いて学校に向かっている途中でした。

 その日は本当に熱い日で、私は揺れる視界と地面が柔らかくブヨブヨになったような感覚と共に、意識を手放してしまったのです。

 ――目が覚めると、そこは学校の保健室でした。

 首まわりがひんやりと冷たく、倒れたというのに少し心地よささえあります。

 私が目を覚ましたことに気が付くと、先生が安心した様子で私に事情を説明してくれました。

 2組の古藤 寛(こどう ゆたか)くんが学校の前で倒れていた私を見つけ、先生を呼んできてここに運んでくれたのだと。

 ……話したことのない男の子でしたが、彼は人気者で交友関係が本当に広く、名前くらいは知っていました。

 夏休み明け、2組にお礼を言いに行くと、彼はたくさんの生徒に囲まれて楽しそうに喋っていたのに私を見るなり飛んできて……私が何か言う前に「あれから大丈夫だった?」と声をかけてくれたのです。

 それから、お礼を言って……近所の洋菓子店で買った小さなマドレーヌを数個ラッピングしたものを渡して、私は立ち去りました。

 私には眩しすぎると思うくらい、近くにいると明るさでクラクラするような人でした。明るく、優しい。同級生にあんな人がいたんだなぁと思いながら、私はドキドキしながら自分のクラスに戻っていったのです。


 意識して耳を澄ませるようになれば、本当に彼が人気者であることがよくわかりました。

 私のクラスの男子からも女子からも、彼の名前は頻繁に出てくるのです。

 けれど私には、自分からあんな賑やかな場に入っていく勇気はありません。ですから、もう話す事はないだろうと思っていたのでした。



 その日、土砂降りの雨と、真っ黒な雲が昇降口の向こうに見えて……たいして意味を成さないだろうという折り畳み傘を片手に、私は絶句していました。
 そうして立ち尽くしていると、カメラのフラッシュをたいたように一瞬周囲が光り、すぐにバシャーンとステンレスの大きな板でもすぐ後ろで落としたかのような落雷の音が響き渡り思わず私は跳ね上がりました。

 そこで私はまたどきりとしたのです。
 昇降口の屋根の下で雨宿りをしていた人影がこちらを振り返って下駄箱で靴を履き替え、私が茫然と立ち尽くしている廊下まで来たとき、やはり私が「あっ」と思うより先にその人物が――……古道くんが声をかけて来たからです。

「参ったね、花住(はなずみ)さん」

 そう困ったように笑って私の名前を呼ぶ彼は、私のすぐ隣の壁に背を預けると、私に「天気がマシになるまで話し相手になってよ」なんて言うのでした。


 たった2回話しただけと思われるかもしれませんが、私が彼に恋心を抱くようになるにはそれで十分だったのです。