水曜日のパン屋さん

 今日も朝から晴天だった。
 五月晴れってやつだろう。
 部屋の窓からはあかるい日差しが射し込んでくる。

 私はいつものように、布団の中で耳をすました。
 だけど今日はお母さんの声が聞こえないし、出かける気配もない。

 のろのろと起き上がって部屋を出る。
 階段を降りてキッチンをのぞくと、お母さんが食事の支度をしていた。

「ああ、芽衣。おはよう」
「……おはよう」
「今日仕事、遅く出ればよくなったから」

 そうだったんだ。

 私は黙って椅子に座る。
 お母さんは私の前にハムエッグを置いてくれる。

「ちょうどよかった。いま作ったところなの。今日はできたてだよ」
「うん……いただきます」

 私はそっと箸をとる。
 お母さんが私のことを見ている。
 いつもと違って、なんだかすごく食べづらい。

「ねぇ、芽衣?」

 お母さんが私の前に腰かけた。

「今日もパン屋さん行くの?」
「え?」

 私は箸を止めて顔を上げる。

「ほら、この前言ってた、水曜日だけやってるパン屋さん」
「ああ、うん」

 先週、さくらさんのお店で買ったパンを、お母さんとお父さんにあげたら、すごく喜んでくれた。

「あのパン、おいしかったね。また買ってきてよ」
「……いいの?」
「え?」

 お母さんが不思議そうに私を見る。

「学校行かないでそんなところに行ってて……いいの?」

 お母さんは私の顔を見て、ふっと微笑む。

「いいよ。芽衣が行きたいところなら。図書館でもパン屋さんでも、どこでも好きなところに行っておいで」

 怒られるのかと思った。
 学校に行かないくせに、外を歩き回っていること。

「でもたまにはお母さんの買い物にもつきあってよ。ね?」
「……うん」

 お母さんの期待に応えられない自分が嫌で、誘われても一緒に出かけることを避けていた。

「ああ、そろそろ行かなくちゃ」

 お母さんが時計を見ながら立ち上がる。

「お皿、洗っといてね」
「うん」

 私はキッチンを出ていくお母さんに言う。

「いってらっしゃい」

 振り返ったお母さんは、何も言わずに微笑んだ。


 あかるい日差しの中を、図書館まで歩いた。
 雨の降っていない日に、図書館まで来たのははじめてだ。
 少しどきどきしたけれど、なんとか誰にも会わずにここまで来れた。

 借りていた本を返すと、今日はすぐに図書館を出た。
 早くあのパン屋さんに行きたかった。
 さくらさんに会いたかった。

 私が駆け足でパン屋さんに行くと、さくらさんは「いらっしゃい」と私のことを迎えてくれた。


「うちのお母さんが、パン、おいしかったって言ってました。また買ってきてって」
「そう。嬉しいなぁ」

 さくらさんがそう言って微笑む。
 さくらさんは、私の二人目のお母さんみたいだ。

 緑色のエプロンをつけた私は、今日はパンの生地をこねさせてもらった。

「そうそう、そんな感じ。手つきいいよ」

 さくらさんに褒められ、うれしくなる。

 するとお店のドアが開いて、制服を着た音羽くんが顔を出した。
 私はどきっとして手を止める。

「ああ、音羽、お帰り。ずいぶん早いね」
「今日からテストだって言ったろ?」
「あ、そうだっけ?」

 音羽くんがリュックを肩にかけたまま、中に入ってくる。

「あ、あのっ」

 この前のお礼……家まで送ってもらったお礼、まだ言ってない。

 音羽くんが立ち止まって私を見る。
 じろっとにらむように。

「お前、また来たの? マジでうちの店で働く気?」
「音羽ー。そういう言い方ないでしょう?」

 さくらさんの言葉を無視するように、音羽くんは焼き立てのクリームパンをひとつ手にとって、口に運ぶ。

「こらぁ! 手を洗えって!」
「もう洗った。うっせぇなぁ」

 そう言いながらも、音羽くんは厨房の隅の椅子に座り、パンをくわえたままリュックを開ける。

「あ、あの……」

 もう一度声をかけた。
 音羽くんはリュックの中から教科書を出しながら、面倒くさそうに私を見る。

「なに?」
「えっと……この前は……家まで送ってくれて、ありがとうございました」

 音羽くんが手を引いてくれたから、なんとか家まで帰れた。
 音羽くんがいなかったら、私は家までたどり着けなかったかもしれない。

 音羽くんは私から顔をそむけ、教科書をぱらぱらとめくる。
 そしてぼそっとひとこと口にした。

「……今日は早く帰れよ」

 私は小さくうなずく。
 下校時間のみんなと会ってしまうのは、やっぱり嫌だから。
 そんな私たちを見て、さくらさんが言った。

「音羽。あんたここで勉強する気?」
「テスト中だって言っただろ?」
「いつもはテスト中だって、勉強なんかしないくせに。芽衣ちゃんがいるから、いいところ見せようとしちゃってさ」

 さくらさんがひやかすように言って、にやにや笑う。

「うるせぇな。だったら勉強しない」
「しなさい。もう二年生なんだから、そろそろちゃんと勉強しないと、大学行けなくなるよ?」
「行けなくたって、働くからいい」
「働くってどこで?」
「あーもう、うるさい!」

 音羽くんは広げていた教科書を、ぱたんと閉じて立ち上がった。

「俺の人生は俺が決める。だからもうほっといてくれ!」

 そう言うと音羽くんは、もうひとつ焼き上がったパンをひったくり、リュックを背負って厨房を出ていってしまった。

 私は呆然とその背中を見送る。

「なにが『俺の人生は俺が決める』よ。カッコつけちゃってさ」

 さくらさんがため息をついた。

「まだ子どものくせに、ね?」

 そう言って私に笑いかけると、さくらさんは背中を向けて、オーブンからパンを取り出す。
 甘いパンの匂いが、厨房の中に広がる。

「でもあの子もね、中学の頃はずっと学校行けなかったんだ」
「え……」
「学校行かないで、毎日ここで父親の手伝いしてたの」

 さくらさんがそう言って振り返る。
 私は思わず言ってしまった。

「そんな感じにはみえない……」
「でしょう? いまはあんなに、ふてぶてしくなっちゃってねぇ」

 さくらさんがくすくすと笑う。

「でも昔はね、学校でいじめられてても、あの子親に言えなくて。突然学校行きたくないなんて言い出すから、私は全然理解できなかった。とにかくズル休みはダメって、無理やり学校に行かせようとしたけど、そのうち私に反抗するようになって……」

 私は黙ってさくらさんの声を聞く。

「だけど亡くなった主人はね、『だったら学校なんて行かなくていい』って、ずっとここにいさせたの。一緒にパンを作ったり、店番させたりして。そしたらあの子、急に生き生きしてきて……主人がいなかったら私は、引きずってでも学校に連れて行ったと思う。音羽のためじゃなく、世間体のためだけに」

 さくらさんが私から目をそらし、少し寂しそうに笑う。

「だからショックだったと思うんだ。二年前に突然、主人が倒れて、そのまま逝っちゃって……」

 私はなにも言えなかった。
 こんなとき、なにを言ったらいいのかなんて、まだ子どもの私にはわからない。

「あ、やだ、ごめんね、こんな湿っぽい話。芽衣ちゃんにしたって、しょうがないのにね」
「いえ……」
「まぁ私もショックだったけど。なんとか二人でやってるの。こうやって主人のパンを楽しみにしてくれているお客さんもいるしね」

 カランと店のドアが開いた。

「いらっしゃいませ!」

 さくらさんが元気よくお店に出ていく。
 私は焼き上がったパンを見ながら、音羽くんのことを想う。

 音羽くんは私と同じだった。
 だから私の気持ちをわかってくれたんだ。

「芽衣ちゃーん。焼き上がったクロワッサン、持ってきてくれるー?」

 お店のほうからさくらさんの声が聞こえる。

「はーい!」

 私は大きな声で返事をして、焼き立てのパンをカゴに並べた。